第13話
「と、とれたっ! とれましたよ! 比丘尼さ……」
矢じりだと確認した刹那、私は
翠姫の顔が、嗜虐で嗤いにゆがんでいると思っていたのだ。
だが実際のところ、翠姫の目には恐怖の跡が色濃かった。
傷口から溢れる血に怯えたと思しき涙の軌跡は、矢じりを取り去った達成感で渇いている。
いや。
これは私が今、殺気をまとって彼女を組み伏せているという新たな恐怖のせいか?
組み伏せられた彼女は黙っていた。目を強くつむり、次にどういった暴力を振るわれるのか待っている。
「
暗がりから
翠姫の首を掴んでいた左手へ、切開した肩から溢れる血がゆっくりと伝うのが見える。
鮮血が翠姫を汚す前に、私は組み伏せるのをやめた。そして何事も無かったかのように囲炉裏の前へ座り直す。
間違い無く誤解だった。痛みと熱と屈辱で正気を失っていたのだが、今さら何を弁解しよう。
「あ、あの」
翠姫は何事も無かったかのように背後へやってくる。
「何だ」
「矢じり、綺麗にとれました……ね」
翠姫が私の肩へ酒を振りかけた。膿と血が洗い流される。鋭い痛みが再び襲ってきたが、刃物を当てられた時の痛みに比べればどうということは無い。
「痛かったですよね。本当に、本当にごめんなさい。思ったよりも、難しくって……」
私は反応しなかった。
自分が憎んでいる者に、ここまで情けをかけられるなんて。
屈辱だ。
「あっ、でも傷が塞がりはじめましたよっ」
「当然だ。不死者だからな」
「良かったぁ……!」
「良かった?」
振り返り、翠姫の碧眼を睨み付ける。
「良かっただと!?」
怯んだ翠姫の様子から察するに、何の気なしに言った言葉だったのだろう。
だが今の私には、この不死体質を、この世で一番憎んでいる者に皮肉られたようにしか聞こえなかった。
「こんな、傷がたちどころに治る化け物だったことが良いことだなんて、八百年の間に一度でも感じたことがあると思うか!?」
翠姫は私が激昂している理由を察したようだった。
「私が不死になったあの年、父は私を名主の息子に嫁がせるつもりだった! 結納の直前で病に倒れた私に見せたのは同情ではなく焦りだった! 娘が死んで婚姻がフイになれば名主に贔屓にされなくなる! だから海岸へ行き、ただひたすらに嘆いていた! そしてあの日が来た。家に帰ってきたあいつは、よそよそしい声で私に桜色の鱗を見せた。『人魚の鱗だ』とな! お前があいつに寄越した鱗だ! そして私は……こんな体に!!」
もはや肩の痛みなんて感じていなかった。髪を振り乱し、怒りにまかせて吼えていた。
黒羽丸の無感情な瞳がこちらを見ている。いつもの冷笑的な私ではない、荒みきった私を見て呆然としているのかもしれない。
「病は治った。死ねなかったからな! ひと月も続いた熱と咳でガタガタになった体をおして結納を済ませ、男を知った。」
翠姫は黙ったままだった。
「子でも授かれば幸せだったかもしれない。だが授からなかった! 私のこの時の屈辱と焦りがわかるか? 名主の一族からは白い目で見られ、父は落胆して酒に溺れた! 私を娶った名主の息子なんて、最初の一年で口も聞いてくれなくなったぞ!」
「それ、は……」
「子を成せない私は目の上のこぶだ。父が酒で死に失せてすぐに、私は身におぼえのない不貞を言いふらされて村から放逐された! 夫を寝取った女の笑顔が今でも忘れられず反吐が出る!」
怒鳴りちらすのに慣れていない喉が、声に切り裂かれてひりつく。
翠姫は抗弁もせず、相づちもうたずにぐっと堪えていた。
「不死でも飢えを感じ、何も喰わずに七日もたてば精神に限界がくる! だから知らぬ男に体を許し、はした金を得て飢えを凌いだ。ときには
口の中に酢の味が広がる。興奮で胃の中のものが上がってきただけだが、餓鬼のころ口にした腐肉の味を思い出した。
「そして山狩りに遭った。捕らえられて斬りつけられ、打ち据えられ、久しぶりに人間らしく怯えた。その後私は尼寺に引き取られた。だが未だに人間に戻れない。なぜだ?」
「私の鱗を、飲んだから」
「そうだ。お前のせいだ! お前は何を思って鱗を父にくれてやった!?」
「お父さまが、とても悲しんでいたから。私、なんとかしてあげたくて……っ」
「浅はかな莫迦女だな!」
「それが人魚というもの、ですから……」
「倫理が欠如していることがか!?」
「人魚は不死です。永遠に生き続けます。だから、先のことや過ぎたことを考えないのです。だってそうでしょう? どんなにしくじろうが、選択を誤ろうが、危険が迫ったところで死にません。だから私たちは今を精一杯楽しむのです。楽しいことに夢中になり、悲しいことを避け、困っている人を見れば手を差し伸べます。そして『今日も良い日だった』と毎日を締めくくるのです」
「そうか。じゃあ今日も良い日か?」
「いいえ。私は鱗を渡したあの日から、『今日も会えなかった』と思うようになりましたから」
「なんのことだ」
「私はあなたが、陸で惨い仕打ちを受けていることを伝え聞いていました。空を飛ぶカモメの噂話や沖に出ている漁師の話から。だから私は毎日海岸をめぐり、あなたが来ないかずっと探していたのです」
「なんのために」
するとそれまで目を伏せていた翠姫が顔を上げた。双眸から滑り落ちていく涙に、私は息を呑んだ。
「謝りたく、って」
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