第8話

 私は熊川宿の手前で自分の失敗を痛感することになった。


 どうしたものかと決めあぐねていると、行き足が止まった理由を翠姫すいひめが尋ねてくる。


「どうか、いたしましたか……?」


 悪態をつきそうになったが踏みとどまる。黒羽丸くろばねまるの教育に悪い。


顕龍院けんりゅういんさま。どう、されました、か」


 シンで良い、といつものクセで言いかけたが留まる。


「宿に入れば自然と人の目につく。人魚の尾ひれは悪目立ちする」


 そう。自分が不死者だから忘れがちだが、普通の人間は不死者にも人魚にも出会うことはないのだ。


「わたくしの尾ひれが目立つから進めないということ、ですか?」

「人魚、さまの、尾ひれ、が……」


 間怠っこしい!


 私は、めげずに話しかけてくる翠姫に根負けした。苛立ったまま後ろを振り返ると、図らずも彼女の目を直視することになった。


 鮮やかな緑の目は、かつて全国を行脚して修行をしていたころに見かけた南の海を思い出す。


 吸い込まれそうな深さよりも、穢れとの無縁さを感じさせる。


 大海に墨汁が一滴垂らされても黒く染まらないように、どれほどの穢れを見せつけられたとしても落胆しないのだろう。


「いかにも、そうだ。お前の尾ひれが衆人の注目を浴びるからだ」


 翠姫は最初、驚いているようだった。だがすぐに落ち着きを取り戻す。


「黒羽丸。そこで待っていろ。私が先に行ってムシロでも買ってくる」

「いえっ、比丘尼さま。それには及びません」

「はん?」


 すると翠姫の尾ひれの鱗が桜色の袴へと変容する。次いで人と同じ脚も現れた。


「これで見た目は人と同じですっ。尾ひれなので、立ち上がるのは練習が必要ですけど」


 そう言って翠姫はつらそうな笑顔を向けてくる。


「尾ひれのままなら、それで行き渋れたものを」


 だが助かったのは事実だった。


「顕龍院さま、困って、ました。翠姫さま、ありがとう、ございます」


 黒羽丸は無邪気だ。翠姫と私の確執なんて関係無いというふうに振る舞う。


「行くぞ黒羽丸」


 私の先導で再び歩き始める。


 数分もすると宿の手前に設けられた曲がり道が見え始めた。


 この曲がり道自体が街の防衛施設なのだが、おかげで我々は宿場の視界から隠され、街の手前で悠長にできた。


 見附みつけの門が見え、旅籠はたごが軒を連ねる様子が見通せるようになる。だが人の往来は数えるほどしかない。


「人が、いません」

「この寒さだ。好き好んで外に出る者もいないだろう」


 空も泣き出しそうな顔をしている。陽の光もなく、気温が上がっていない。氷雨どころか雪が降りそうだ。


 道を荷車の転がる音だけが支配する。時間も夕餉前だ。誰も我々を気にしない。


「この街のお宿で泊まるのです、か? 比丘尼さま」

「バカか。この先に廃屋がある。そこで一夜を明かす」


 あからさまに翠姫のことを嘲ってみたが、当の本人は気にしていないようだった。むしろ私と会話を重ねていることが、気を強く持つきっかけになっているように見える。


「あ、あのっ、比丘尼さま」

「なんだ」

「その、見られている気がするのですが」


 そう。


 我々は見られている。


 翠姫の姿が奇異に見えるからではない。そもそも素人の視線ではない。


「黒羽丸。急ぐぞ」

「はい」


 荷車を急がせ、脚が速まる。街道には誰もいない。心置きなく飛ばせる。


 危惧した番所の近くも抜け、反対側の見附まで到達して熊川宿を脱した。


 だが脱する直前に、横道を何かが駆けていったのを見た。


 一波乱くるか。


「び、比丘尼さま。宿場はもう出ましたよ? まだ走るのですか?」

「これからだ」

「えっ?」


 門を出た所は入り口と同じで曲がりくねっている。だから曲がるまでは先を見通せない。


 いや、予想は出来ているが。


「そこの荷車! 止まれ!」


 右手に見える山側の木々の間から声がかけられる。それを合図に捕り手が六人と侍が四人、目の前になだれ込むようにして出てきた。


 足を止め、私は黒羽丸にも停止するよう目配せする。


「何かご用ですか」


 黒羽丸や翠姫に動揺させないよう、私はあえてとぼけて見せた。


京都所司代きょうとしょしだい新島盈にいじま みつるである! 比丘尼どの。その荷車の娘を検めさせていただきたい」


 そう言って前へ出てきた新島という侍は女だった。見目麗しい男装だが、そこまでして刀を振り回したいのだろうか。


「何もありませんよ。ただの連れの娘です。脚が悪いため荷車に乗せているのです」

「何もなければ検めさせていただけますね?」


 荷車に乗る翠姫に目配せをする。彼女は黙って頷きかえす。


「本人は良いと言っている。だが貴女が検めるのだろうな?」

「あっ、やっぱり私がやらないといけませんか?」


 何を言っているんだこの娘は。

 すると女侍の背後から、聞き覚えのある若い男の声がした。


「まさかとは思いましたが、やはり先生なのですか」


 新島の右隣から前へ出てきた若い侍。役所勤めにもかかわらず、月代さかやきを剃っていない男。


 心臓が縮退する思いだった。


まき……?」

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