第四章
第16話
廃屋へは戻らなかった。
一晩中、真っ暗闇の竹林をさまよって冷気を感じ、餓鬼だったころへ戻ろうとしていた。そうすれば極限まで利己的になれると思った。
だが出来なかった。
空が白んできた。天上を覆う雲がぶあつい。ひと雨きそうだ。
湿った空気の匂いが周囲から湧き、逃避していた正気が返ってくる。時間のうつろいが今やるべきことを意識にささやいて、私を廃屋へ戻るよう促した。
小屋からは米のあまい香りが漏れてきている。
「
扉を開けると
昨晩のあれはなんだったのだろうか。
「顕龍院、さま。朝は、いかが、しましょう」
「貰おう」
黒羽丸は嬉しそうに椀をとり、鍋の中の粥をよそっていく。
鍋のかけられている囲炉裏は灰がくすぶっているだけだった。再びこの囲炉裏に火が宿ることはあるだろうか。
私のほうを見ず、静かにしている。手元の自分の椀にゆっくり口をつけて平然としているように見えたが、その目元は腫れ、時折咳き込んでいた。
喉を傷めたか。
傷めたかだと? それがどうした。
「顕龍院、さま。どうぞ」
「
「はい、
黒羽丸が熱々の粥をよそって、こちらへ差し出してきた。
ありがたく頂こう。今日は冷えるだろうし、強行軍になりそうだ。
「
翠姫がつぶやく。
しくじった。黒羽丸の前だからつい、口走ってしまった。
「
翠姫の問いかけは黙殺した。だがそのとおりだとは黙っていても分かる。
「黒羽丸。食事を終えたらすぐに出る。準備をしていてくれ」
「はい。顕龍院さま」
***
小屋に別れを告げ、街道とは違う目立たない細い道を選んで出発する。
すぐに氷雨が降り出した。
雨脚こそ弱かったが、長く歩くほど消耗するだろう。
後ろを見やると黒羽丸がぐっしょり濡れて荷車を引いている。毎度、寒くないのだろうかと心配になる。
「黒羽丸。流石にこのままでは凍える。雨が上がるまで野営をしようか」
「いえ。僕は、大丈夫、です」
黒羽丸の胆力には毎度驚かされる。薄い着物一枚で、肌まで濡れているというのに。
そして荷車に乗る翠姫も、濡れそぼってはいたが眉一つ顰めずにしている。
「お前は寒くないのか」
「海の底は、もっと冷たいですから」
聞いた私が莫迦だった。
「シ……顕龍院さまこそ、寒くないのですか」
「これからすぐに寒くはなくなる」
私の言葉の意味に翠姫は気づけなかったようだが、すぐに答え合わせがされた。
木々の間から人がなだれ出てきて、目の前の道を塞いだ。同時に甲高い笛の音が鳴る。それは山道をこだまし、数秒ほど間を置いて別の笛が遠くで応える。
道を塞ぐのは笠を被った侍が六人、簔を羽織った捕り手が十人以上。
「うしろにもっ」
翠姫の囁くような叫びを聞いて振り返る。後方に五人。退くこともできない。
「先生」
正面の集団から一人、侍が進み出てきて笠を脱ぎ捨てる。
「
「先生。ここに居るのはほんの一部です。別の道にも同じくらいの人数を伏せさせています。笛の音はお聞きになったでしょう? すぐに仲間が来ます」
「そうか」
「お願いです先生。観念してください。僕らは浅岡の捕縛が目的なんです」
「ということは、ここで私を殺すと手がかりを失うわけだな」
「いいえ。その後ろの二人も共犯として扱います。女子供だって容赦しませんよ」
後ろから震えながら息を吐く音がする。翠姫の緊張が募っているのだろう。
だが槇たちは翠姫も共犯だと言った。すると、浅岡が欲しているものが翠姫であるということは知れていないのか。
「いずれにしても、ここで先生を足止め出来れば浅岡は焦れるでしょう。存分に捕まえさせて頂きます」
「殊勝だな」
刀を、刃を雨で濡らすようにゆっくりと抜き、構える。
捕り手たちが刺叉を構える。槇や
「先生。良くて片腕を失うでしょうが、恨まないでください」
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