第26話
寺の本尊は蓮の花に座る観世音菩薩像だった。
長いこと手入れをされていなかったようだが、蜘蛛の巣一つ見えない。蝋燭の灯りが菩薩像の貌を照らし、その微笑みをいっそう温かく見せる。
「………」
自然、私は跪いていた。
「……なぜ、見ているだけなのです」
菩薩は何もお応えにならない。当然だ。目の前におわすのは木彫りの像。もしかすると、私よりも若い像かもしれない。
だが私はその場から動けなかった。眠っているような、あるいは優しく見守っているような目に射られていたから。
瞳が光っている。玉かなにかが入れられているらしい。この像を彫った仏師は、相当に魂を込めたようだ。
「ありもしない仏の、何を有り難がるんです。この世は醜く穢れている。今日もあれだけ悩める衆生がいるのに。なぜあなた方は微笑むだけなのです」
こうして語りかける私もまた、頭の片隅では何か超常的な存在が見守っているのではと期待している俗物だ。
「八百年。八百年です。私はそれだけ耐えてきた。そして今、誰かが苦しむ代わりに私が苦しみから解放されると期待してここまで来ました。ですが土壇場で自分本位になりきれず、日和った」
情けなさのあまり、視線が下る。無生物の座像の視線を感じ、いっそうの存在感を全身に受けることになった。あれは木の塊だというのに。
「ようやく得られた機会を、私は放棄しました! だって、あの娘に、
座る足元の板間が、雫で濡れていく。
「で、できない。そんなことできない」
うつむく目に溜まりきらない涙が、ぼたぼたと音をたてる。
「なんで私だけがこんな目に……っ」
誰かが来るかもしれない。こんな見苦しい姿をみせるわけにはいかない。だけど嗚咽が、食いしばる歯をこじ開けて這い出てくる。
私は甘くて弱い。偉そうな口を利いて、隙がないよう見せかけていた。そして強きに徹せなかったゆえに、全てが台無しになった。
うずくまって泣き叫びたいぐらいにはつらい。黙って私を見下ろす菩薩は、どう思っておられるか。その御心を慮る資格すら、私には無いのかも。
「おう」
項垂れていた頭を跳ね上げ、背後を振り返る。そこにはいつのまにか、
「お、お前……!」
「らしくないぞ、あるじどの」
「ら、らしいとか、らしくないとか言うな」
「メソメソしてる姿なんか見たくないって話よ。昼間みたいに、キビキビ油断なく張り詰めてる雰囲気のほうが好きだ」
皕瀬は懐紙を差し出してくる。気障なやつだ。
「あるじどのは優しすぎるのよ」
「なんのことだ」
「実のところ、親のことなんか怨みたくないんだろう? 後から考えると、あれはこうじゃなかったかという、思い違いや拗らせだと気づいているんだろう?」
「ち、違う!」
「放浪して餓鬼の真似事をしたことだって、その時はそれが最良の生き方だったんじゃないか?」
「違う! 違う違う!!」
「そして尼になって、それなりに平穏な日々を送っている今だって……」
「だまれぇっ!!」
「………」
絶叫して抗ったが、そこからは皕瀬を呆然と見上げることしかできなかった。叫んで吐き出した息が、呼吸をしても戻ってこない。体は涙をしゃくりあげることしかせず、言うことを聞いてくれない。
「わ、わたし、を。……ゲホッ!」
肺がこれ以上広がらない。息が吸えない。喉が裂けそうに痛い。呂律が回らない。
「おい?」
だけどこれ以上、無様ではいられなかった。
「わたしが積み上げたものを、否定してくれるな……」
「積み上げたのは怨みかよ」
「そうだ。怨み一本で、私はここまで来たんだ」
「そうやって怨みとか、どす黒いものに執着して、なんになったよ」
「……!!」
「辛い過去を捨てろとはいわぬよ。それもあるじどのの一部だしな。だが楽になったほうが良いとは思うのだがな」
皕瀬は手を差し出してきた。
「他人がどう捉えているかはどうでも良い。だが、自分の捉え方は変えてみろよ」
「………」
「この先も、そうやって心を砕かれていくつもりか? そんなの、俺なら嫌だぞ」
釈然としない。
納得しない。
こんな、この世に生まれたばかりの魂に説教されるなんて。
だけど、目の前に差し出された手は、どん底に沈もうとする私を今にも掬い上げそうな手だった。
手をかり、ぐらぐらしながらも立ち上がる。皕瀬はその間何も言ってこない。
「世話になるなんて……まっぴらなのに」
「今さらだろう。何度死線から守ってやった?」
道具のくせに偉そうに——と言いかけたが、やめた。
「あるじどの。呼びに来たのにはわけがあってな」
「なんだ」
「早速、来たぞ」
その一言で涙がひいた。思考が急に明瞭になり、やるべき事が見えてくる。
「やる気だな、あるじどの」
「無論だ」
「じゃあいこう」
燭台の火を消し、本堂を出て行こうとする。だが私は視線を感じて立ち止まり、振り返った。
窓からさし込む月光に照らされる観世音菩薩が、微笑んでいた。
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