第三章
第11話
わたし達は濃い乳色の霧に紛れ、逃げることができた。
血の跡を辿って
そもそも、気づけば矢柄が何かに当たって折れてしまっていた。
「
薄暗い屋内。朽ちた囲炉裏に火がともり、灯りと熱を生んでいる。
何年もうち捨てられていたであろう山小屋に、久方ぶりに人の営みが生じていた。
「寝ていたか。すまない」
壁に寄りかかりながら意識を無くしていたらしい。
熱がある。肩の中に残った矢じりが傷を悪化させているのだろう。
不死の体に生じた傷が腐ることはないが、肉の再生を妨げる何かが傷に居座っている以上、回復もしない。
むしろ動き回ったことで傷がさらに深く、膿んだのかもしれない。
「比丘尼さま。お顔色が……」
くそっ。
「顕龍院さま。お夕食、お召し上がりに、なり、ますか」
囲炉裏の灰に突き立てられている枝は何かと思ったが、皮を剥いた蛇が巻き付けられて焼かれていた。黒羽丸が獲ってきたらしい。
「いや。肉は食べられそうにない。折角だがすまない」
黒羽丸の顔が曇る。いらぬ心配をかけているのがもどかしい。
このままだと明日の行動に支障を来す。
やるしかない。
「黒羽丸。頼めるか?」
「なにを、ですか」
刀の鞘から小柄を引き抜き、黒羽丸に見せた。
「この刃を焼いて消毒しろ。そうしたら私の肩の傷を抉って、中の矢じりを取り出せ」
もうそれしかない。痛みは想像を絶するだろうが死ぬわけじゃない。稚児とはいえ男に諸肌を見せるのは憚られるが、私ももう恥じ入るような小娘ではないしな。
「ごめん、なさい」
黒羽丸は目を伏せた。
「顕龍院さまを、傷つけ、たく、ない、です」
意外な拒否だった。理屈が分からない子ではないはずだが。
「黒羽丸。これは傷を治すために必要なことなんだ」
「いや、です。熱い鋼、押しつけると、苦しい、です」
「私は耐えられる。大丈夫だから」
「傷を、抉ると、血が、出ます。いや、です」
「黒羽丸。耐えられると言っているだろう? 私を信じられないのか?」
「違い、ます!」
珍しく怒鳴ってこちらを見返した黒羽丸の目は潤んでいた。
「どうしたら、いいか、分から、ないです。顕龍院さま、辛そう。でも、傷を、触るの、もっと辛い。僕、どう、すれば」
いくら稚児として雇っていても、所詮は元服前の未熟な子供だ。だからこそ年上の私が苦しんだり、指図して苦しませるようなことをさせてはいけないはずなのに。
だがこのまま立ち往生したり、まして傷を放置して前へ進むわけにもいかない。
槇のあの鬼気から察するに、絶対に私を逃さないつもりだ。先回りしていると見て良い。
この私自身が足手まといになるなんて。
ふと、翠姫が視界に入った。何かを迷っている風にもじもじとして、視線が合ってしまった私に気まずさを感じて目を伏せた。
卑屈な女だ。
「おい。覗き見が趣味か」
「ちっ、ちがいます」
「ではなんだ。さっきから何か言いかけているだろう。気づいてないと思ったか」
「だっ、だって、ええと、その子! 嫌がっているじゃないですか! だからっ、そのっ」
怯えて言葉を選んでいるのが気に障る。
「黒羽丸以外に頼める者がいないからだ」
「わ、わたくしだって……」
「おめでたい奴だな。誰が仇に凶器を渡すかよ」
翠姫の眉間が険しくなった。露骨に莫迦にしたのが効いたらしい。
「わっ、わたくしのことはいくらでも莫迦にして結構です。だけど、いえ、ですがっ」
「いちいちまだるっこしいなお前は! 言葉を選べない魚並の脳なら、最初から飾るな! どのみち明後日までの付き合いなんだからな!」
熱でぐらぐらする意識に苛つき、思わず黒羽丸の前で怒鳴ってしまった。だけどこの翠姫と話していると本当に歯がゆいのだ。
「じゃ、じゃあ直言します! 嫌がってるのに無理矢理やらせるなんて、心の傷になりますよっ! 責任とれるんですかっ」
「だからお前がやるのか?」
「状況的にそれしかないじゃないですかっ」
「黒羽丸が出来ないのだったら私が自分でやるまでだ」
「む、無茶ですよ! 当てずっぽうなんて……」
「お前なら上手くやれるような言い草だな」
「私は、あなたのためになることをなんでもして、償いたいんですっ。私の償いなんて興味がないのは分かっていますが……。だけど! 私に代わりにやらせれば、その子に嫌な思いをさせずにすむじゃないですかっ」
頭ががんがんとし始めた。左肩の痛みも強くなっている。
すでに刀を振るって黒羽丸を守ることはおろか、自衛もできそうもない。もし今ここに無頼の輩がやってきたとして、私は何も出来ずに嬲られるだろう。
こいつの世話にならざるをえないのか。
「分かった、やれ」
口が裂けても「頼む」とは言えなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます