第十章

第40話

 雪が消え、梅の香りを楽しんだことも記憶に新しい春のころ。私は嵐山の桜を眺めていた。


 思えば桜を愛でるというようなことをした覚えがない。色の付いた山を観ることに価値を感じなかったのだ。だが、この山が毎年きまった時期に薄紅色に色づくことが大切なのだろう。


 私はいま、はっきりと年月の流れを感じていた。


「比丘尼さま」


 声を掛けられ、私は自分のたたずむ橋の入り口のほうを向く。翠姫すいひめがしっかりとした足取りでこちらへ近づいてきていた。


「もう私は尼じゃない」

「ごめんなさい。つい、言いやすくて」


「良いさ。それより、休めたか」

「はい」


 踵を返し、嵐山を後にする。春の香りを含んだ風が髪をなびかせる。


「翠姫。海の……故郷へ戻らなくていいのか」

「大丈夫ですよ。両親とも放任主義ですから。人魚ですし」

「だが、おま……」


 お前、と言いかけて口をつぐむ。なんと呼びかければいいか、よい言葉がうかばない。


「言いやすい呼び方で、良いですよ」

「……翠姫も、姫と名乗るぐらいだから、心配されるような立場だろう?」


「私、あんまり王位継承とは関係ない立場ですから。自由なんです」

「だからしょっちゅう、海岸線で私を探せていたのか」

「そうです。これが継承権二十位以内になると、もうお連れが大変ですよ」


 翠姫はあれから、くすくすとよく笑ってくれる。

 このよく笑う人こそ、本来の翠姫なのだ。


「それに、私はいまおかの世界を歩けて、とても楽しいですから」

「あんな目にあっても、か?」

「未知に危険はつきものですから。それに、今は、その」


 翠姫ははにかんだ。


「あなたが、そばにいるから」


 もったいないと、思うことが多くなった。

 浅岡の断末魔で死にかけて、翠姫に再び鱗を飲まされた。そして、彼女は私をまた不死の体にしたことを悔やんでいた。


 だが私は、もう少し生きながらえてみたいという、興味ににた気持ちを抱えていた。それがあのうわごとに繋がったのだ。


 結果として命を拾ってもらった。

 私は単に翠姫をもう少し知りたいと、ぼんやりと思っていただけなのだ。だから翠姫の思い詰めたような決断に、負い目のようなものを感じていた。


シン、さま?」

「いや、すまない。そろそろ籠をつかまえよう。祝言に遅れる」

「はい」


 ***


 京都所司代きょうとしょしだいの与力・同心たちが住む新屋敷は二条城の近くにあったが、祝言の式をするには手狭だった。だから鴨川より外側の、槇たちが行きつけの料亭が儀場として選ばれた。


 槇は「貧乏人が通う店ですから」と謙遜していた。だが暖簾のかかる玄関から察するに、こじゃれて静かな、良い雰囲気のただよう店だった。


 到着するなり、控えの間へと通された。


「ほんとうに、着替えなくて良いのですか」

「槇や新島の親族がそう言ってるんだ。それに私たちは呼ばれた側だしな」

「はあ」


 積まれた座布団を二人分持ちだして座り、ようやく落ち着いた心地になる。翠姫は正座に慣れていないので、脚を崩して座っていた。


 襖の向こうに気配がやってきて、男の声で「御免」と声がかかった。


「どうぞ」


 襖が動き、ねずみ色の略装を着た皕瀬ももせが現れた。


「おうあるじどの。来ていたかよ」

「ああ」


「お久しぶりです。皕瀬さま」

「茶を持ってきた。しばし時間を潰していてくれ」


 淹れ立ての茶が二杯、丁寧にも茶托に乗って差し出される。薄造りの湯呑みは京焼の特徴だと聞くが、想像よりも薄く軽く造られていて感心した。それに小さな落雁が一つ。


「よく働いているみたいだな?」

「槇どののところで働けといったのは、あるじどのだろう」

「人として過ごすなら、人の仕草を覚えなければな」


 茶を一服する。すこし熱めでちょうど良いと思ったが、翠姫にはどうか。


「おいしいですね。味が濃くて……」

「聞くところの、宇治か?」


「朝宮と聞いたぞ」

「どこだそれは」

「しらぬ」


 皕瀬はふいと踵を返し、部屋を出て行こうとする。


「ではな。俺は下働きさせられて、今日は忙しくてな……」

「今日でいとまを貰うのだろう?」

「だからだ。最後に使い潰されるやもしれんぞ」


 くすくすとした笑いが聞こえ、皕瀬は肩をすくめて襖の向こうへ消えていった。


シンさま。朝宮って、近江のことですよ」

「近江? 茶がとれるのか?」


「ええ。芭蕉にも詠まれていますよ」

「私より陸のことに詳しいな?」


 翠姫は照れくさそうにした。海岸から私の行方を探っていれば、自然とそういう情報も耳に挟むようになるのだろうか。


「私たちだけ、ですかね」

「呼ばれた女は、そうだろう。今日は祝言だからな。親族や友人への披露だ」

「なるべく目立たない色の着物にしたのですが……」


 翠姫は淡い桜色の訪問着だった。


「そもそもその髪色が目立つからな」

みつるさん、気にしないでしょうか」

「だから私が男装に近い格好をしているだろう」


 祝言で、身内への披露宴とはいえ花嫁より目立ってはいけない。だがわたしが付き添いとして立ち振る舞っていれば、目立つ翠姫に懸想をする輩もいないだろうと考えたのだ。


 藍鼠色の、紋が一つだけ入った色紋付の着物なら誰も文句は言わないだろう。


「お背中の井桁紋は、ご実家の?」

「私は卑賤の出だぞ実家に家紋なんてあるかよ。かといって僧籍も抜けたから宗紋を使うわけにもいかない。だから適当だ」


「どこも、御家の印って面倒ですね」

「おまえの実家もか」

「ええ。もう煩わしくって」


 これまでもそうだったが、今さら気づいたことがある。翠姫とこうして話をして時間を過ごしていても、どれだけ日が傾こうとも気にならないのだ。


 明日の予定だとか、今日しなければならないことだとか、確かにある。それらも含めて、話だけで一日が『潰れた』という感覚にならない。無駄ではない時を過ごしている気分。


 八百年前に憎悪と不安に塗れ、化け物になりかけた自分が、ようやく今、生きていることを実感できている。


 いつまでも二人で、こうして互いのことを教え合ったり、知り合ったりしていたい。そういう願望は有限な時間に生きる定命の者だけのものだと思っていた。


 いま、私は翠姫のことを、この宇宙が燃え尽きて消えるそのときまで尋ね続けていたい。


 不死であっても。いや、不死だからこそ、そう思えるようになった。

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