第2話 火付け番、沙羅
注目を浴びた妖魔は、若い女だった。一見、人間の娘と変わらない姿をしている彼女は、黒い胡服に包まれた華奢な肩をびくりと震わせると、二十歳になるかならないかの麗しい人面をひきつらせる。
「いえ、あたし……わたくしは……」
「拒否権ない言うたやろ。お前はもう、ワシの術にかかっとる」
牛魔王は『火付け番』に無慈悲な視線を浴びせると、左の胸元を見るよう、自分の左側の襟を開いて示した。
『火付け番』の娘は、胸元にかかっていた艶やかな黒髪を後ろへ払いのけると、慌てて左側の襟をぐいと開いて自分の胸元を確認した。そして、絶句する。
殺悟空(悟空を殺すべし)
吃三藏(三蔵を食うべし)
乳白色の牙飾りを一つ垂らした首飾りの、ちょうど真下。筆で書かれたような黒い文字が二列になって、白い胸元に浮かび上がっている。『火付け番』は真っ青になり、言葉にならない悲鳴を上げた。
牛魔王が喉を鳴らして、悪質に笑う。
「三つ目の術じゃ。これでお前は、ワシの課題から逃れられん」
『火付け番』は立ち上がると、つんのめりながら仲間の間をぬって、牛魔王の前に進み出た。
「おおお恐れながら、わぁワタクシがおらねば館中の火の気がなくなります!
「火打ち石があるやろが」
ごもっとも。
必至に訴えたが反論の余地がない返答を頂戴していまい、『火つけ番』は黙りこむ。
「ええか
沙羅は愕然とした。つまりは、用無しの能無しと言われたのだ。ついでに、身も蓋も無い採用理由まで暴露されてしまった。だがここで素直に無能を認めてしまうと、問答無用で異界へ投げ込まれかねない。沙羅は食いさがる。
「そんな! 『お前は目の保養になるから傍に置いてやる』とも、仰ったではございませんか!」
沙羅の訴えを、牛魔王は否定しなかった。それどころか、大いに肯定する。
「確かに言うた。確かにお前は可愛らしい。せやけどな……」
牛魔王は腕を組んで何度も頷いた。しかしその後たっぷり間を溜めると、カッと両目を見開き、こう断言する。
「
羅刹女、とは牛魔王の正妻である。
途端、その場の空気が一気に白けた。
何故なら羅刹女と牛魔王は、既に他人の仲――つまり、離婚が成立していたのだ。離婚の理由ははじめに、牛魔王の浮気。そこで一度、夫婦関係が冷えた。続けて追い打ちをかけるように牛魔王が仏界へ連行され、完全な別居状態となってしまった事で、結婚生活に終止符が打たれたのである。つまり、牛魔王は見限られたのだった。
「正妻様がお好きなら、妾なんぞ作らなければよかったものを」
「そんで結局、逃げられちまったしな。女好きのスケベ牛」
「なんか言うたか」
「「本日も素晴らしい男っぷりでございます!」」
先程の妖魔二人と牛魔王が、同じやり取りをした。
二度目の土下座をした仲間を呆れ顔で眺めていた沙羅だったが、やがて可憐な相貌を引き締め牛魔王に向き直ると、腰に携えてあった二振りの短刀を抜きとり、中段構えをとる。
「わ、私には、病気の母と幼い妹がおります! 異界になど行くわけにはまいりません!」
「ほぉ。ええ度胸じゃ」
戦う意志を見せた若い手下を前に、牛魔王が胸の前でボキボキと指を鳴らした。
「やめとけ沙羅!」
「殺されちまうぞ!」
仲間の身を案じた妖魔達が、無謀な争いをやめさせようと立ち上がって手を伸ばす。しかし、
「殺しゃぁせんわ。大事なだーいじな駒やさかいの」
牛魔王はどす黒い笑みに牛面を歪ませると、沙羅と対峙しながらゆっくりと足を横へ運びはじめた。低い声で不気味に歌いつつ、沙羅の後方へと移動してゆく。
「火を吹く可愛いワンちゃんがぁ~♪ 大王様に言いましたぁ♪ ワタシを家来にしったなっらばぁ♪ きぃっと損はさっせまっせん~♪ 火を吹く可愛いワンコちゃん~♪ い~まが働き時だっせ~♪」
沙羅は冷や汗を流しながら、構えを崩すことなく、牛魔王の正面を保ちし続ける。やがて、牛魔王と沙羅の位置が逆転した。
「た、確かに。そのように申し上げ、ました……が……」
異界への扉を背後に、沙羅は牛魔王の即興歌に返答する。
その答えを聞いた牛魔王は、悪質な笑みを深めた。構える事もせず、右脚を振り上げると――
「ほんだら、はよう行ってこんかい! 穀潰し!」
怒声と共に、前蹴りを放つ。
単純な蹴りであったにも関わらず、沙羅はまともに受けた。それほどに、牛魔王の蹴りが速かったのだ。後方へふき飛んだ沙羅は悲鳴を上げる事すらできず、異界へ通じる扉へと吸い込まれ、消えた。
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