甘州にて
第13話 金襴の袈裟
「大乗論、巻上。本性無自性章。すべての存在の本性は
陽もまだ昇っていない夜明け前。玄奘は朝の説法をしていた。蓮の花を象った香炉から木香の煙が細く立ちのぼり、蝋燭の灯りにぼんやりと照らされた伽藍堂の中に、薄い香りの膜を張っている。
お堂に集まった大勢の僧侶たちは、高座に座って
憧れの眼差しで食い入るように玄奘を見つめる者。無の境地の一歩手前のような無表情で、ただひたすら講和に耳を傾ける者。眠そうに、ゆっくりとした瞬きをくり返す者。皆同様に頭を剃りあげ法衣に身を包んだ僧侶とはいえ、反応は様々であった。
中には小声で隣同士、無駄口をたたく若い僧もいた。
「これはまた立派な
「旅の途中とはいえ、玄奘様ほどの方となると、お持ち物の一つをとっても違うのでしょう」
素直な感嘆と、少しばかりの嫉妬心からもたらされる
それは説法を説く玄奘の耳にも届いていた。
視線を上げて歳若い僧に目をやると、目が合った二人は慌てて姿勢を正し、表情を引き締めた。
嫉妬も揶揄も、仏の道に生きる者には避けるべき感情である。しかし、僧侶も所詮は人間。負の感情に流されかける事もあって当然である。
玄奘も同じであった。
口では
―― 道半ばなのだ。彼らも、私も。
玄奘は彼らと己を励ますつもりで、口元に小さな笑みを浮かべた。
説法を終え、
仏像を眺めるふりをしながら、玄奘は胸元に話しかける。
「大丈夫ですか悟空。苦しくはありませんか?」
すると、胸元から返答があった。
「へいきへいき。それよりも、しっかり俺を見せびらかして下さいよ。
返事をしたのは玄奘が纏っている袈裟だった。黄糸の刺繍が惜しみなく施された、
「身につけているだけで十分人目を引いています」
先程の歳若い僧侶二人を思い出しながら、玄奘は袈裟に化けた悟空にこたえた。
悟空は幸い、七十二通り全ての妖術を失ったわけではなかった。幾つかの妖術は使う事ができ、その中に変化の術もあったのである。
悟空は甘州に到着する前に、袈裟泥棒を捕獲するための策戦を立てた。
玄奘が、これでもかというくらい豪華な袈裟を身につけ寺に滞在し、袈裟泥棒をおびき寄せるというものである。
白骨夫人の退治に続き、またしても囮役を頼まれた玄奘だったが、これも乗りかかった船だと承諾した。袈裟泥棒に妖魔の疑いがある以上、放っておく事も出来なかった。
「しかし、ここに来てもう三日だ。三人は大丈夫だろうか」
沙羅と悟浄と八戒は、街で袈裟泥棒の情報を集めているはずだが、何故か音沙汰が無いのである。
悟浄と八戒の姿は目立ちすぎるため、悟浄は妖術で肌の色を人間に寄せ、八戒も本性である黒豚に姿を戻した。
『この世界は妖術が効きにくい』とぼやいていた二人だったが、その後ボロは出ていないだろうかと玄奘は不安だった。なにせ、妖術を得意とする悟空ですら、うっかりすると時折、袈裟から尻尾を出してしまう始末なのである。
悟空が尻尾を出す度に、玄奘はそれを襟巻と称して首に巻いてみたり、ハタキと称して柱の埃をはらったりと、素早い対応を迫られた。
ちなみに玉龍はというと、寺の厩舎で毎日食っちゃ寝している。
「ふわぁ……大丈夫ですって」
悟空が欠伸交じりの能天気な声で、玄奘を元気付ける。
「もしかしたら、泥棒の隠れ家くらい見つけてるかもしれませんよ。こっちだって、そろそろ泥棒が現れてもおかしくない頃合いなんです。油断しないでくださいよ」
「それは分っていますが……」
玄奘が歯切れの悪い応答をしたその時、大仏寺の小坊主が玄奘を呼びに来た。馬蹄寺(ばていじ)の住職から、講話の依頼があったという。
「岩窟にお堂を造った珍しい寺でございます。一見の価値はありますよ」
小坊主はにこにこと笑いながら、玄奘に承諾を勧めた。
「これはもしかしたら、来たんじゃありませんかね。おっしょさん」
悟空が声を弾ませた。
突然、誰とも知らない声を聞いた小坊主が、「はい?」と不思議そうに辺りを見回す。
玄奘は咳払いで小坊主の注意をひくと、笑顔をつくろい合掌した。
「喜んで伺います」「今すぐに!」
玄奘の声色を真似た悟空が、小坊主を急かした。
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