第12話 五葷(ごくん)三厭(さんえん)

 野営場所に戻った玄奘は、朝の読経どきょうを終えた。

 東の山脈の向こうに見える空は白み始めているが、辺りはまだ、薄ぼんやりとした藍色である。

 玄奘は、拳より一回り大きな石を集めて円形に並べると、その中に枯れ枝を組んだ。行李から火打ち石を取り出す。


「ちょっと、何してんのよ」


 後ろから覗きこんできた沙羅が、不機嫌そうに聞いてきた。湯を沸かすつもりだと答えると


「そんなもんいらない。捨てて」


 火打ち石を指さし、棘のある口調で命じて来た。


「いやしかし火を――」「捨てるのが嫌ならさっさと仕舞って」


 何が何でも火打ち石を使わせたくないようである。

 沙羅の目は据わっていた。


 本性が獣なだけに焚火たきびを嫌うのだろうかと思いながら、玄奘は石を行李の中に仕舞った。しかし、すぐさま沙羅が口から火を吹いて組んだ枯れ枝に着火させた様子を見て、なるほど火打ち石は彼女にとって天敵だったのか、と合点がいく。


 悟浄が、中華鍋に湖の水をたっぷり入れて持ってきた。沙羅が白骨夫人の頭を殴打するのに使った鍋である。


おとり役、ご苦労さまでございました。師父。お手柄でしたな」


 焚火の上に鍋を置きながら、悟浄が微笑みかけてきた。

 青黒い肌に赤い髪と髭、錦の十徳という奇抜な配色に加え、武僧のようないかつい壮年の顔が一見恐ろしく、近寄りがたい悟浄である。けれども笑みを作った時にできる目尻の皺が優しげで、自分を僧職に導いてくれた次兄にどこなく面ざしが似ていると感じた玄奘は、悟空よりも八戒よりも先に、悟浄に気を許していた。


「いいえ。まさかあんな妖魔がいるとは私も驚きました。慧琳と道整を、涼州に帰しておいてよかった」


 火にあぶられ、ふつふつと気砲を生みはじめた鍋の底を眺めながら、玄奘は、ほっと息をつく。


 悟空らが瓜州かしゅうまで伴をしてくれると言うので、玄奘は、二人の少年僧を引き返させたのである。今後も獣人達のような妖魔に襲われては、二人を守りきれないかもしれないと案じた故だった。


 少年僧らの護衛は、盗賊が引き受けてくれた。彼らは今回の一件で、すっかり改心していた。賊である自分達の命を救おうとした玄奘に感謝し、涼州に着いたら百姓か商人になる、と意気込んでいた。


「残念でございます。面白い小坊主達でありましたのに」


 悟浄は寂しげな様子で玉杓子たまじゃくしで鍋の中をかき混ぜると、湯をすくってお椀に注ぎ、それを玄奘に渡した。


 湖畔にいるせいか、今朝は肌寒いくらいである。お椀の温もりを両手に感じながら、玄奘は湯を口に運んで、噛むように飲みこんだ。


「それにしても、よく偽物だって分ったね。おっしょう様」


 八戒が、饅頭をむしゃむしゃ食べながら言った。

 その饅頭は、昨晩沙羅が、見回りついでに近くの村で調達してきたものである。


 沙羅に化けた白骨夫人の事を言っているのだと察した玄奘は、


「乗られた時に、重みが全然違ったので」


 と答えた。

 沙羅は双叉嶺で一度、玄奘の膝の上で気絶しているのである。


「へえ。どっちがずっしりきたの?」


 興味津々で八戒が聞いてきた。

 饅頭を配りながら、沙羅が『失礼だ』と言わんばかりに八戒を睨みつける。


「あたしの方が軽いに決まってるじゃない」


 いや、白骨夫人の方が軽かった。


 饅頭を受け取りながら、玄奘は真実を飲みこんだ。

 沙羅は細身には違いないが、なにしろ相手はた骨である。あれより軽くなるというのは、どだい無理な話であった。


「女の重みか……ええなあ……」


 饅頭を頬張りながら、八戒がうっとりした。口の端からよだれと一緒に、饅頭の欠片がポロポロとこぼれる。

 隣に座っている悟空が何かに気付き、「ん?」と八戒の出腹にこぼれ落ちた饅頭の欠片の匂いを嗅いだ。


「あ、おっしょさん。こいつはダメだ。食べちゃなんねぇ」


 鼻根に皺を寄せた悟空が、饅頭を食べようとしていた玄奘に待ったをかける。

 饅頭を配り終えて玄奘の隣に座った沙羅は、目を丸くした。


「なんでよ。野菜餡よこれ」


「肉が入ってなきゃいいってもんじゃねえの。 この中身、ニラと玉葱じゃねえか。しかもニンニクまで入ってやがるし」


 五葷ごくん三厭さんえんを知らんのか、と悟空は沙羅をなじった。


 三厭とはつまり肉。鳥肉、獣肉、魚類の事である。五葷は、匂いの強い野菜をさし、特にネギ、ニンニク、ニラ、らっきょ、アサツキのことを言う。全て僧侶が避けるべき食物であった。


「どうしてダメなわけ? 玉ねぎは血を綺麗にしてくれるし、ニラとニンニクは精がつくじゃない」


「坊主が精つけてどうすんだよ」


 栄養学的な観点から饅頭を選んできた沙羅に、悟空が『やれやれ』と首を振る。

 沙羅はぷっと頬を膨らませた。


 玄奘は、五葷について丁寧に説明する。


「五葷は『気』を傷つけ心を不安定にすると言われています。神経を刺激して高揚感を引き起こす効能があるんです。あとは単に、匂いが強いので読経には相応しくないといった理由です」


 八戒が食べ足りなさそうにしていたので、玄奘は沙羅に断りを入れてから、八戒に自分の饅頭を渡した。

 沙羅は不満げに、手渡される饅頭を目で追った。


「好き嫌いしてちゃ、美味しい肉にならないじゃないの」


 二個目の饅頭を美味そうに食う八戒を見ながらぽつりと洩らす。


 玄奘は思わず苦笑った。

 あれだけ吐いておきながら、沙羅はまだ自分を食べるつもりでいるらしい。しかも体内環境を整え、血肉の味を改善しようとまでしている。

 強かなのは結構だが、さて困ったものである。


「あ、そうだ兄貴。さっき、村人から聞いたんだけどさ」


 最後の一口を飲みこんだ八戒が、満足げに腹を撫でながら、思い出したように報告を始める。


 最近、甘州で変な泥棒が出るらしい。高官の邸宅などには見向きもせず、寺にばかり盗みに入るのだそうだ。しかも、盗んでゆくのは豪華な袈裟だけという。


「ほう。袈裟泥棒か」


 悟浄が顎を擦りながら、興味深げに言った。

 悟空も丸い顎をガリガリと掻きながら、首を捻る。


「袈裟。袈裟ねぇ……待てよぉ。なんか、そんな奴いたような、いなかったような……」


 暫く考えた悟空は、やがて「あ!」と顔を上げた。


「思い出した! あの黒助か!」


 悟空が思い出したのは、黒風山に住むキンキラ好きの熊の妖怪。黒風怪こくふうかいであった。



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