金川峽にて

第11話 白骨夫人(はっこつふじん)

 ここは涼州と甘州かんしゅうの真ん中あたり。金川峡のほとりである。


 玄奘は松の木の根元にむしろを敷き、野営していた。行李にぶらさげた燭台の灯はいつの間にか消え、辺りはまん丸い月と満点の星明りに、ぼんやりと照らされている。草の陰では秋虫が涼しげな音色を奏で、湖からはひんやりと湿った空気が漂ってくる。

 そんな中、玄奘は一人、静かな寝息を立てていた。

 ―― が、草を踏む人の気配を感じ、目を覚ます。


「三蔵法師」


 呼びかけられて身を起こすと、黒い胡服に身を包んだ若い女が立っていた。裸足だった。


「沙羅?」


 玄奘が見知った妖魔の名を口に出すと、女は、月明りを蓄えた漆黒の目を細め、薄紅色の唇の両端をゆっくりもち上げた。帯を解いて着物を脱ぎはじめる。


 草むらを歩みながら、上から順に着物を落としてゆく妖しげな女。月明かりに照らされ浮かび上がったその姿は、やはり沙羅だった。沙羅は一糸まとわぬ姿になると、新雪で作られたようなその肢体で玄奘に覆いかぶさった。

 

「綺麗でしょう? わたし」


 囁くように語りかけてくる。


 玄奘はごくりと唾を飲み込むと、沙羅に気取られぬよう顔は見合ったまま、右手を枕の下に差し入れた。

 枕の下をごそごそと探る玄奘の手の動きに気付いていない沙羅は、柔らかな掌で玄奘の頬を包み込む。


「欲しければあげるわ。その代わり、お前の体もわたしにちょうだい」


 鈴を転がすような声で誘ってきた。


 ようやく玄奘の右手が、枕の下で目的の物を掴みとった。金の梵字が書かれた、赤いお札である。


『どこでもいいのさ。どっか身体に貼っちまえば』


 別れる前に、悟空に言われた言葉を思い出す。

 

――顔面は駄目だ。かわされやすい。


 玄奘は掴みとったお札を、沙羅の肩に貼ることに決めた。


「私は、出家の身なので……」


 会話で注意をそらしながら、そろりそりろりと、札の裏面を乳白色の左肩に近付けてゆく。

 そして赤い札が左肩裏に届こうとしたその時。


「ぎゃあ!」


 鈍い音とともに、目の前にあった白い裸体が、悲鳴を上げて横へふっ飛んだ。

 玄奘は驚いて目を見開く。


「あたしのお尻は、もっと引きしまってる!」


 素っ裸の沙羅の後ろから怒声と共に現れたのは、中華鍋を握り締めた沙羅だった。きっちり着物を着ている彼女は、さあもう一撃、と鍋を振り上げる。


 慌てて起き上がった玄奘はお札を握り締めたまま、中華鍋を持つ細腕を掴んだ。


「待って下さい! もう死んでいます!」


「え、嘘でしょ」


 嘘ではなく、素っ裸の沙羅は白目をむいて息絶えていた。


「あらホント。でもこの死に顔、あたしにしては不細工よね」


 本物の沙羅が鍋を下ろして、偽物をもっとよく観察しようと身をかがめる。その時、悟空の怒鳴り声が闇夜に響いた。

 

「ばっきょろーよく見やがれ! そいつは『解屍かいしの法』だ!」

 

「「えっ!?」」


 玄奘は沙羅と顔を見合わせると、もう一度遺体を見た。

 なんとしたことか。遺体が、沙羅ではない別の若い女に代わっている。

 

 見知らぬ女の屍を前に言葉を失っている二人の横を、如意棒を脇に挟んだ悟空が猛スピードで走り抜けた。

 続いて、半月刃の付いた杖『降妖宝杖こんようほうじょう』を構えた悟浄が。最後に、まぐわを担いだ八戒が、腹を揺らして駆けけてゆく。


「本体はあっちだよぉ!」


 黒豚の短い指が指し示した先を見た玄奘は、「あっ」と声を上げた。

 なんと、骸骨がすたこら逃げている。


――あれでどうして分解しないのか。


 そんな場合ではないと思いながらも、玄奘は不思議で仕方が無かった。


「待って何なのあれ!?」


 沙羅も鍋を放り投げて走りだす。

 

「こんにゃろー白骨夫人はっこつふじん! オメエのせいで、オイラはおっしょさんに破門されたんじゃぁー! この恨み、はらさでおくべきかー!」


 前にいた世界で腹にイチモツ抱える出来事があったらしい。

 いきり立った悟空が、二足走行から四足走行へ変える。速度が増した。

 しかし如意棒が邪魔をしているのか、どうにも思ったように走れない様子である。しかも骸骨の逃げ足は存外、速い。


 これでは逃げられると思ったその時、一足遅れた白馬が走って来た。玉龍である。玉龍は、玄奘の横で停止した。

 乗れ、という事だと玄奘は察した。

 飛び乗った玄奘を乗せた玉龍は前足を上げ高く嘶くと、疾風の如き早さで駆け出す。あっという間に沙羅を追い越し、次に八戒を追い越し、悟浄を追い越し、やがて先頭を走る悟空を抜かす。


――これなら追いつく!


 玄奘は左手で手綱を掴みながら、しわくちゃになったお札を口に挟み、右手で皺を伸ばした。


 白骨夫人が目の前に迫る。

 玉龍は速度を落とさなかった。このまま横を駆け抜けるつもりなのだと確信した玄奘は、左手に札を持ち、手綱を少し右へ引いて玉龍を誘導する。

 

 玉龍の頭が、白骨夫人と並ぶ。玄奘は身体を左側へ倒した。

 追いついた玉龍と玄奘に振り向いた頭骸骨が、眼窩を広げて「きゃああ」と甲高い悲鳴を上げる。


 玄奘はすり抜けざま、骸骨の脊椎にお札を貼り付けた。



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