第10話 緊箍呪(きんこじゅ)
「誰が八つ当たりだ、バカにしやがって! やっぱこいつらブチ殺す!」
顔を真赤にした悟空が再び、如意棒を構えた。玄奘はとっさに棒の先を掴んで捻り、奪った。
「あっ!」と悟空が声を上げる。
「なにすんですか返して下さいよ!」
悟空は飛び跳ねながら、棒を奪い返そうとしてきた。
玄奘は必死に足をさばいて身をひるがえし、悟空の手から逃れた。しかし、身体能力では猿である悟空の方が数段上である。如意棒を奪い返されるのは、時間の問題であった。
回転させたり掲げたり。玄奘が、悟空の手から棒を逃がしながら、どうするべきか考えあぐねいていると、「師父、これを!」と悟浄の声が聞こえ、白い何かが空気を切って飛んできた。
片手で掴み取り見てみると、掌大の紙だった。経文のようなものが書かれている。
「唱えて下され! 早く!」
悟浄が催促してきたので、玄奘は言われるままに紙に書かれてある経文を読んだ。
途端、悟空が悲鳴を上げてエビ反りになる。
「ぎゃー痛い痛い痛い! 止めて下さい、おっしょさん!」
頭を抱え、のたうちまわる。
玄奘は驚き、読経を止めた。すると、悟空も大人しくなる。
地面にぐったり寝そべった白い猿は、
「誰だ、
と力なく呻いた。
「先程、玉龍の毛にくっついているのを見つけたのだ」
悟浄が答えた。おおかた釈迦如来が、我らを地上に落とす際、玉龍に託したのであろう、と付け加える。
「悟浄テメエ、裏切りもん!」
「仕方なかろう。お前が乱暴狼藉を働こうとしたのが悪いのだ」
悔しげに涙を流す悟空に、悟浄はぷいとそっぽを向いた。
「これが噂の緊箍呪かぁ」
「うへえ、おっそろす~」
「くわばらくわばら」
獣人達は緊箍呪を聞き知っているようで、その抜群の効力を前に、目を丸くしている。
緊箍呪とは何か。玄奘は八戒に訊ねた。
「悟空兄貴は短気な上に手のつけられない乱暴者でしてね。その上、腕っ節が最強なもんだから、観世音菩薩様が歯止め用に下さったんですよ。その経を唱えると、兄貴の頭にある輪っかが、おもくそ頭を締めつけるのね。あっちのおっしょう様は、そらもうしょっちゅうこれで兄貴を懲らしめてましたよ」
八戒がつらつらと能弁に語った。
「はぁ~あぁ、こっちに来てまで頭締められる羽目になるなんてよぉ」
悟空が特大のため息をつきながら、のそのそと起き上がり、あぐらをかいた。ぴしゃり! と忌々しげに、自分の膝を叩く。
「チクショウおかしいと思ったんだ! なんでまた
恐れ多くも釈迦如来に恨み事を吐いた猿に、玄奘は歩み寄った。如意棒は念の為、まだ返さないでおく。
「それは取れないんですか?」
玄奘は素朴な質問をした。
「そうなの取れないの!」
悟空は両手に顔を埋めてワッと泣いた。
猿が泣いている姿は珍妙だったが、その小さく丸い背中と幼子のような仕草にはどことなく愛嬌もあり、玄奘の同情を誘った。
慰めようと手を伸ばしたところで、後ろから沙羅に止められた。
「見てくれに騙されちゃ駄目よ。そいつはね、天界で大暴れした挙句、釈迦如来にまでくってかかってお仕置きをくらった問題児なの。三蔵のお伴をしたのは、罰だったのよ」
「余計なこと言うんじゃねえよ」
ぱっと顔を上げた悟空が、沙羅に向かって牙をむいた。涙はもう乾いていた。もしかしたら、そもそも泣いていなかったのかもしれない。
「釈迦如来って、あの御釈迦様ですか?」
道整が瞳をキラキラさせて悟空に問いかけた。
「他に誰がいんだよ」
対して悟空は、当然と言わんばかりに目をぱちくりさせた。
天人や仏に近い世界から来たというのは本当らしいと、玄奘は感嘆のため息をもらした。
悟浄が何かを思い出したように「あ」と声を上げた。悟空を呼ぶと、自分の襟元をとんとんと叩いて示す。
「釈迦如来と言えば。
「そういやそんなもん貰ったな」
悟空は十徳の襟に手を突っ込むと、ゴソゴソと探った。絹で織られた金色の袱紗を取り出し、長い指先でひらりひらりと袱紗の端を開いていく。
「面倒くせえなぁ。片っぱしから首跳ね飛ばす方が楽なのによ」
ぶつぶつと物騒な事を呟きながら、悟空はひい・ふう・みい、と御札を数えて取り出すと、残りをまた襟の中に仕舞った。
無言で獣人達に近づくと、やにわに熊の額に御札を貼りつける。
「お、おおおおっ!?」
透け始めた仲間の体を見て、牛と虎がのけ反った。
自分に何が起こっているのか分らない熊の妖魔は、札を貼られたままキョロキョロする。
「え、なになに? 俺、どうなってんの? ちょっと教え――」
て。を言う前に、御札と一緒に消えてしまった。
「一丁上がり」
悟空がケララと笑った。
いいやぁぁぁぁっ!
パニックになった盗賊達から、大絶叫が起こる。八戒が「煩い」とまぐわで順々にどついた。
「元の世界に送り返しただけだ。殺したわけじゃねえんだから喚きなさんな」
八戒が説明している間に、悟空が残りの二枚を牛と虎の額に貼った。
熊の妖魔と同じく、透明になって消えていった。
「次あたし! 早く貼って!」
沙羅が悟空に向かって、嬉々として額を突きだした。
「オメエはダメ」
悟空が猿顔を意地悪な笑みに歪めて言った。
愕然とした沙羅は、
「なんで!」
と悟空ににじり寄る。
「あたし、あっちの世界に帰りたいの! 帰れるんなら三蔵の肉なんて要らない! 早くお札貼りなさいよ!」
強気なお願いと共に、頭突きの如く差し出された丸い頭のてっぺんを、悟空が叩いて拒絶する。ペシンと軽い音がした。
絶句している沙羅に顔を近づけた悟空は、カカカと歯を見せて笑う。
「お前、使えそうだからな。残しといてやるよ」
そして、手を叩いて踊りだす。
あ、そーれワンコは鼻がきくもんな♪ 飯や水を探させて♪ 妖怪の居場所も嗅ぎ分けて♪ 寒けりゃ毛皮にすればいい♪ あよいしょ
左に右に脚を変えてぴょこぴょこ飛び跳ねながら非人道的な計画を手拍子つきで歌った悟空は、続いて天を仰いで大いに笑った。
沙羅は涙目で、口をパクパクさせている。
「やれやれ先が思いやられるわ」
悟浄が俯き、眉間を揉んだ。
「やったあ! 女の子が仲間入りだぁ!」
万歳をした八戒が、嬉しそうに鼻を鳴らした。
龍の子供だと紹介された玉龍は、どこからどう見てもただの馬だった。黙々と足元の草を
「どいつもこいつも、バカにして……!」
真っ赤になった沙羅は、肩を
盗賊の着物で作ったタスキを力任せに引きちぎった沙羅は、狩りをする狼の如く、悟空を追いまわし始めた。
「歌うんじゃない! このおたんこザルー!」
悟空は楽しげに笑って身をかわしながら、尻を叩いたり、舌をベロベロ出したりしている。沙羅は完全に遊ばれていた。
「あの女性、歌に嫌な思い出でもあるんでしょうか」
慧琳の疑問に、玄奘は「さあ」と答えるしかなかった。
ただ、予感めいたものはあった。
これからの旅路はきっと、予想していたものとは全く異なった種類の苦難が待ち受けているであろう、と。
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