第9話 筋斗雲(きんとうん)と如意棒(にょいぼう)

「きんとうん! 筋斗雲きんとうん! キントウーン!!」


 悟空が両手を掲げ、空に向かって呼ばっている。


 声の高さを変えてみたり、抑揚をつけてみたり、表情を変えたりポーズをつけてみたり。思考錯誤したものの、空は何の反応も返して来ない。やがて癇癪を起こした悟空は、「きいぃぃぃぃーっ!」と金切り声を上げ地団駄を踏む。


「彼は、何をしているんですか」


 玄奘は、沙悟浄に訊ねた。

 山頂を下り、元の山道に戻った玄奘は、悟空達から簡単な自己紹介や状況説明を受けていた。


「雲を呼んでおるのです。師父しふ。あちらの世界では乗り物として重宝したのですが」


 沙悟浄は玉龍に怪我が無いか、全身をチェックしながら答えた。

 慧琳と道整が、己の毛髪をむしりながら怒り狂っている悟空からそろそろと距離を取りつつ、玄奘に耳打ちする。


「玄奘様を追った時も、我々を背負って雲に乗ろうと呼んでいたのですが、来なかったので大層怒っておりました。結局、我々を背負ったまま走ったのですよ、あの猿は」


「短気な猿です。玄奘様もお気を付け下さい」


 襲われた当初こそ震えていた慧琳と道整だったが、悪漢が一人残らず拘束された今となっては、すっかり肩の力が抜けた様子である。


 悟空達から聞かされた話は、妖怪や仙人、異界など、にわかに信じがたい事柄ばかりであった。しかし歳若いこの二人は、明らかに異形の生き物である八戒や悟浄を相手に、談笑する余裕すら見せた。

 案外、肝が太いのだろうか。それとも若い分、柔軟なのだろうか。

 玄奘は気弱だと思っていた少年僧二人を、意外な面持ちで見つめた。


「伸びろ如意棒! 伸びろって! ちくしょうなんで伸びねぇんだーっ!」


 悟空は、今度は赤い鉄棒に向かって命令した。しかしこちらもうんともすんとも反応がなく、喚き散らす。


「あの鉄棒は、伸びるんですか」


「如意棒といいます。本来ならば伸縮自在なのですが」


 玄奘は悟浄と並んで、悟空が癇癪を起こしている様子を眺めた。


 玄奘にとって、三人の中では悟浄が一番まともに見えた。青黒い筋骨隆々の体に袖が破けたボロボロの十徳を羽織るという威圧感の強い外見とは裏腹に、所作や言葉が落ち着いており、話しかけやすかったのである。

 黒豚男の八戒はというと、悟空の隣で己の出腹を撫でながら、「頑張れ兄貴ならできる! あ、駄目だわぁ全然ダメだわぁ」などと調子がいいだけの声掛けをしている。的確な回答を求めるには不適切な相手だと、玄奘は判断した。


「あはははは!」


 突如、カラカラとした笑い声が響いた。見ると、獣人や盗賊と同じように両手を後ろに縛られた沙羅が、足をバタつかせて爆笑していた。


「妖術を使えない悟空なんて、もはやただの猿! 役立たずの猿! 人語を喋る分気持ち悪いだけじゃないの!」


 後頭部に鉄棒の直撃を受けて失神していた割には、元気そうだった。そもそも沙羅は悟空に頬を叩かれ目覚めた後、自分の足で下山したのである。やはり彼女の頑丈さは人外故なのだと、玄奘は思った。

 

 悟空は輩の如き獰猛な面で「ああ?」と沙羅を睨みつけると、元々ガニ股の歩様を更に広げて、ケタケタ笑う乙女に近づいた。

 下顎を前に出し、額をぶつけんばかりに顔を寄せる。続けてくんくんと鼻を動かすと、 


「犬臭ぇ」


 と吐き捨てた。


「牛魔王の飼犬が。縛られるだけで済むと思うなよ。妖術なんざ使えなくてもオメエの首くらい、この如意棒で吹っ飛ばせんだぞ」


 威勢のいい巻き舌で沙羅を威嚇した悟空は、次に他の無頼漢達に如意棒の先を向けた。


「オメエらもだ! おっしょさんを襲っておいて、生きて帰れると思うんじゃねえぞ!」


「殺されるって、俺らもかよ!?」


「ひでえ! 俺らなんもやってねぇのに!」


 盗賊たちがぬけぬけと言った。

 うち一人は、フンドシ一丁である。彼の着物は、八戒と悟浄の手によってはぎ取られ、悪漢達の手足拘束用として、たすき状に裂かれたのだった。

 

「こん裏切りもん! お前が抜け駆けしなきゃ、こんな事にはならんかったぞ!」


「お館様に蹴り出されたお前を不憫に思って追いかけてやった我らがアホだったわ!」


「俺等にまで火ぃ吹きやがって! もう仲間だとは思わねぇかんな!」


「よく言うわよあたしの嗅覚を利用したかっただけでしょ! あんたら三人、あたしに隠れて人間喰ってたの知ってんだからね!」


 妖怪は妖怪で、仲間割れを始めた。


「やかましーい!!」


 雷鳴を轟かせるが如き悟空の怒号が、空気をビリビリと震わせた。

 フンドシ一丁の盗賊が、白目をむいて気絶した。


 悟空は自分の身長の倍近くある如意棒をさっと振り回し上段に構えると、片足を引いて腰を落とす。 


「どいつもこいつも反吐が出るぜ! 何もかも気に入らねえ! その汚ねえ首、端から順番に吹っ飛ばしてやるから、覚悟しやがれ!」


「あ~らら、兄貴ったら疳の虫が大暴れ」


 八戒が垂れた耳をボリボリ掻きながら、悠長に言った。

 盗賊達は一様に青ざめ、首を縮めている。


 悟空の背中から本気を感じ取った玄奘は、慌てて悪漢達の前に身を投じた。


「待って下さい悟空! 彼らを殺さないで下さい」


 両膝をついた玄奘は、手を合わせて懇願する。

 悟空は今にも鉄棒を振り下ろさん体勢で、玄奘をぎろりと睨んだ。


「こいつらは、おっしょさんを殺そうとしたんだぜ! 許すなんてできっこねえや!」


「だが私はこの通り生きている!」


 玄奘は必死に食い下がった。

 悟空の怒りの原因は、玄奘が襲われた事だけではない。空や鉄棒を思い通りに操れぬむしゃくしゃが余計に怒りを増長させているのだと、玄奘は分っていた。

 しかしそれを指摘すれば、余計にムキになるのが人の心というものである。故に玄奘は、まずは悟空の気持ちを落ち着かせようと試みた。


「悟空。私が生きているのは、そなたに助けられたお陰です。慧琳も道整も、そなたに感謝している。だからどうか、二人の心に傷を残すような事は、止めて頂けないだろうか」


 悟空の小さな額がぴくりと動いた。金色の虹彩に彩られた赤い瞳から、憤怒の色が消えてゆく。

 もう一押しだ、と玄奘は確信した。


「仏の下では、命は平等です。例え相手が罪人であろうと、けして粗末に扱ってはならない。頼みます、このとおり」


 最後に悟空の足元に額をつけ、慈悲を請うた。


「悟空。ここは師父に免じて、解放してやってはどうだ」


「そうだよ兄貴。せめてその可愛子ちゃんだけは許してあげないと」


 沙悟浄と猪八戒も、玄奘に味方して悟空をなだめにかかる。


 玄奘の頭上で、ふ、と何かが日光を遮った気配がした。顔を上げると悟空が、掲げていた如意棒を下ろして玄奘を除きこんでいた。


「わかったよ、おっしょさん。ホラ立って」


 猿の平べったい掌が、玄奘に差し出される。

 玄奘は安堵の微笑みを浮かべると、小さな手を取って立ち上がった。


「ありがとうございます」


 と礼を言う。

 悟空は口角を横に引くと、沙羅や獣人に負けないくらい鋭い歯を見せた。それが笑顔なのだと気付くまで、束の間を要した。


 事は丸く収まったと思われた。しかしここで、八戒が余計な一言を口にしてしまう。


「もう、兄貴ったら。妖術が使えないからって当たり散らしちゃ駄目だよぉ。ホント短気なんだから」


 白馬を含め、そこにいる全員が硬直した。

 

「このバカ豚!」


 悟浄が怒鳴りつけたが、後の祭りだった。

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