第41話 沙羅の人相絵

「可愛いな」


 と李昌は言った。

 李昌が見下ろす先には、呼び寄せた似顔絵師が描き上げたばかりの、沙羅の人相絵がある。


「いかがですかな? 尊師」

 

 文机から顔を上げた老境の似顔絵師が、李昌と並んで後ろから絵を覗きこんでくる玄奘に振り向いて、出来栄えを訊ねた。


 玄奘は「よく似ています」と人相絵の腕を褒めた。

 玄奘の答えを聞いた絵師は、満足げに頷いて筆を置く。


 髪は黒。やせ形で、中背。頬はふくよか。黒目が大きく、眉は描いたようになだらか。やや丸めの鼻に、ふっくらとした唇。


 紙の上には、玄奘が語った沙羅の特徴が見事に再現されている。

 李昌はこれと同じものを十枚描かせると、絵師を帰した。

 

 絵師が深々とお辞儀をして執務室の扉を閉める。


 パタン、と戸が合わさる音がするなり、ただの猿のふりをして部屋の隅にある書棚の彫刻を指でなぞっていた悟空が、ぱっと身をひるがえして、人相書きを両手に持って広げている李昌の背に飛び乗った。「どれどれ」と似顔絵を覗きこむ。


 同じように、巻物を読むふりをしていた悟浄と、その足元で昼寝をしているふりをしていた豚の八戒も、李昌の元にバタバタと走り寄る。


 悟浄に抱きあげられた八戒が、沙羅の似顔絵を目にした途端、「はあ、沙羅ちゃん……」と恋しそうなため息を吐いた。


 李昌は両腕をのばして人相書きから距離をとると、「ふむ」と唸りながら、沙羅の胸像をまじまじと見る。

 そして李昌はまた、


「可愛らしいな」


 と同じ感想を口にした。ただし今度は独りごとではなく、玄奘に物言いたげな視線を向けている。

 

「ええ」と玄奘は屈託なく応じた。


「一見気は強そうですが、笑うとはすの花の如し」


「ほお」


「あんな駄犬、ペンペン草で十分だぜ」


 悟空が吐き捨てるように言いながら、右足を使って右耳をかく。


 李昌はそんな悟空に一瞥を送ると、また人相書きを眺めた。そして、何気なしに口にする。


「しかし、そなたの師匠はそのペンペン草を好いておられるのであろう」


 ゆっくり十ほど数える沈黙の後。


「――は?」


 と虚をつかれたような反応で静寂を破ったのは、玄奘だった。



 その夜、玄奘は昔の夢を見た。


 十四の玄奘が、次兄長捷ちょうしょうについて、洛陽らくようの浄土寺で沙弥しゃみ(出家はしたが僧職を授与されていない若い僧)をしていた頃の思い出である。

 官吏、鄭善果ていぜんかのはからいにより、異例の十三歳で得度とくど(出家すること)が叶った翌年のことだった。


『愛や恋自体が悪なのではない。いずれそこから発生する、欲や執着が苦しみを生むからして、問題なのじゃ』


 『摂大乗論』を講じていた厳法師が玄奘に諭したのは、托鉢たくはつ(信者の家や町に行き、食料などを乞う修行)を暫く禁じられた事に対して、玄奘が異議を申し立てたからであった。


 一人の娘が、玄奘が町へ托鉢に出る度に姿を見せるようになっていた事を、知られたのである。


 玄奘と同じ年頃のその娘は、左目の下に小さな泣き黒子があった。

 一列に並んで施しを待つ僧の椀に米を入れるその娘は、いつも清楚な微笑みを絶やさなかった。しかし玄奘の前に立つと、必ず相好を崩して、はにかむように笑うのだ。

 玄奘もまた、そんな彼女を憎からず思っていた。娘の事は誰にも話さなかったが、厳法師は見抜いていたのである。


 故に玄奘は托鉢を含め、寺から出る事を暫くの間禁じられた。


 娘に対して抱いている情が、愛に育つ前に摘みとっておけ、と法師は言った。

 それが、あの娘の為であり、己の為でもあると。


『釈迦ですら、欲や執着を生み出さずい続ける事には苦労した。故に釈迦は、家族と離別し、定住せず一生を終えた。執着心というものを生まぬよう努めたのじゃ』


『それでは私は、彼女に何を与えればよいのでしょう』


 こんこんと諭す法師に、玄奘は訊ねた。その時は論を求めるというよりも、失望を言葉に代えただけだった。


 愛情を打ち消した先に、幸福は存在するのか? その時の玄奘は、『否』という答えしか導き出せなかった。


『慈悲じゃよ、玄奘』


 厳法師は柔らかく微笑んで答えた。

 愛ではなく、慈悲を与えよ、と。


『欲せず、夢想せず、ただ《幸せであれ》と願ってやればよい』


 善人にも悪人にも、蟻一匹に対しても、等しくそのようにしてやるのが、僧の生き方である。


 静かに説く厳法師の表情は、慈愛に満ちていた。

 玄奘は教えを呑み込んだ。

 その日から玄奘は、娘が施しに現れなくなるまで、托鉢には出なかった。


―― 思えば、名前を知るどころか、声すら聞く事も無かった。


 夢うつつの中、玄奘は瞼を閉じた状態で、十四の自分から現在の自分にゆっくりと戻った。李昌から紹介された寺の一室で、板間に筵を敷いて悟空らとともに並んで眠っている二十八の自分に。


 もし僧でなければ、と考えた事は、玄奘は一度もない。僧である事は、己の運命であり、天職であるとも思っている。


 だがしかし――


 李昌の一言で、自覚した。

 芽生えかけのこの感情。胸にぽっと炎を灯したような、懐かしい心地。


 これがいずれ、己を蝕むとはとても思えない。しかし、蝕まれてからでは遅い。けして蝕まれないという自信も持てない。

 故に、僧であり続けたくば、戒を守らなければならない。


 右隣から、悟浄のイビキの合間に悟空や八戒の小さな寝息が聞こえてくる。


 握りつぶせ。まだ間に合う。

 すり替えるのだ。慈悲に。


 まだ間に合う。


 玄奘は、両の拳をきつく握ると、重い瞼を持ち上げた。


 蜘蛛の巣一つない天井の、太い梁が見えた。

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