第42話 カトゥーの娘

 朝一番で、李昌が寺に来た。急ぎの用なので、出勤前に寄ったのだと言う。李昌は、一人の若者を連れていた。

 唐人とは異なった、西方の特徴を持つ掘りの深い面立ちの青年だった。おそらくソグド人(イラン系)だろうと、玄奘は予想した。


石槃陀せきばんだと申します」

 

 名乗った青年は玄奘に跪き合掌すると、自分はこの寺の住職である達磨によく世話になった者だと簡単に自己紹介をした。


 玄奘は「南無阿弥陀仏」と合唱で応える。


 石槃陀が、懐から四角く折り畳んだ紙を一枚、取り出した。広げられたそれは、昨日作られた沙羅の人相絵だった。


「この娘を知っているそうだ」


 李昌が言う。


 玄奘の後ろで、ただの豚と白猿のフリをして転げまわっていた八戒と悟空の動きがピタリと止まった。客人の為に茶を淹れはじめていた悟浄も、「え!」と驚きの声を上げた直後、湯のみに注いでいた茶をこぼしてしまい、「あちっ!」と悲鳴を上げる。


「それは、まことですか」


 玄奘は、自分の周りに集まって来た仲間達に押されるようにしながら、まだ跪いている石槃陀に確認する。

 手に持っていた人相絵を玄奘に差し出した石槃陀は、「はい。確かにこの娘です」と玄奘の目を真っ直ぐに見て答えた。


「バザールの、露天におりました」


 ★


「あんた、仕事行かなくていいのかよ?」


「『遅刻する』と使いをやった」


 肩に飛び乗って小声で訊ねて来た悟空に、李昌が答えた。

 悟空は八戒同様、着物や武器を宿泊している寺に預け、ただの動物のフリを続けている。


「なんだかんだ言いながら、付き合いイイよねぇ」

 

 李昌のすぐ前を豚の短い脚でよちよちと歩く八戒が、笑うように鼻を鳴らしながら李昌をからかった。

 八戒の前を歩いていた悟浄が後ろを振り返り、帷帽いぼうの布の奥から「静かに!」と声を押さえて注意する。


「喋ってる所を石槃陀に見られたら、厄介でありんすよ!」


 そう言った悟浄もまた、女装をしていた。

 藍色の漢服を着た大女姿の悟浄を、悟空がうんざりした様子で見る。


「オメエのその下手くそな女装、どうにかなんねーのかよ。視界に入ると気持ち悪ぃわ」


 女装考案者である李昌が、バツが悪そうに咳払いをする。


「仕方あるまい。今更肌の色を変えては寺の者に不審がられるのだから」

 

「さいでやす。我慢しんしゃい!」


 悟浄も、小声でぴしゃりと窘めた。


 玄奘は、仲間のやり取りを背中で聞きながら、はやる気持ちを抑えて石槃陀についてゆく。


 やがて石槃陀は、小さなバザールの前に辿り着いた。

 玄奘らが白猿ゴクウを追いかけたバザールとは、また別の場所だ。


「ここです」


 石槃陀は後ろの玄奘をちらりと振り返ると、


「あちらに」


 と市場の列の真ん中あたりを掌で示した。


 李昌の肩から玄奘の肩へと飛び移った悟空が、立ち上がって体を左右にゆらした。視界を高くして、沙羅の姿を探しているのだろう。ほどなくして


「あ」


 と小さく呟いた悟空は蹲り、「群青色の屋根んとこです」と玄奘に耳打ちしてきた。

 

 悟空と頷きあった玄奘は、群青色の露店の中が見える位置まで、道行く人々の間を縫うようにゆっくりと移動する。その後ろには、八戒を抱えた悟浄と李昌が続いた。


 目的の露天の、斜め前。通りを挟んだ反対側にまで辿り着いた玄奘らは、通行人達の隙間から、群青色の屋根の店を覗く。

 そこには、横長の台の上に、鮮やかな色彩と複雑な模様で織られた布や、乾燥させた果物などが商品として並べられていた。

 商品の向こう側では幾つかの人影が、店頭に立つ買い物客の前でキビキビと動いている。


――いた


 玄奘は見つけた。

 中年の女性に、織物を広げて見せている若い娘。商品と同じ布地の、漢服でも胡服でもない鮮やかな着物を身にまとっている。

 笑顔をふりまき、楽しそうに接客をしている。髪は結っておらず、色彩豊かな髪飾りを額近くに巻いている。


 玄奘が良く知っている、飾り気のない服装でいつも悟空と喧嘩ばかりしている娘とは正反対だが、その姿は間違いなく沙羅だった。


「ああ。あれは、カトゥーだな」


 玄奘の隣に立った李昌が言った。


「カトゥー?」


 初めて聞く名称に、玄奘は眉をひそめる。


「南の民だ。ああやって時折、織物や植物を売りに来る」


「カトゥー……ですか」


 沙羅の本性である『禍斗かと』に響きが似ているなと思いながら、玄奘は悟空を肩に乗せたまま、吸い寄せられるように露天に近づいてゆく。


「ありがとうございました。またどうぞ!」


 先程広げていた織物が売れたらしい。織物を胸に抱えて去ってゆく中年の女性に、沙羅が笑顔で手を振り見送る。そしてすぐにまた、後ろの方で何か作業を始めた。

 

 在庫を整理している沙羅の後ろに、玄奘は中年女性と入れ替わるように立った。


 玄奘の心臓は苦しいほどに早鐘を打ち、指先は冷たくなって少し痺れている。掌には、妙な汗までかいている。

 

「……沙羅?」


 こちらの世界での名前は違うかもしれないと思いながら、おそるおそる、声をかける。


 沙羅が振り向いた。

 朗らかな笑顔が、きょとんとした表情に変わる。

 

 沙羅は一度ゆっくり瞬きをすると、肩にいる悟空も含め、玄奘の上から下までさっと視線を滑らせた。続いて、小首を傾げた彼女は邪気のない瞳で玄奘と目を合わせる。


「はい。何か? 尊師」


 尊師。


 おそらく、玄奘の知っている沙羅であれば、けして口にしないであろう呼称だった。


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