第44話 沙羅を満たす約束

 その日の夕刻、玄奘は再び市場バザールを訪れた。


 後ろへ二十歩ほど離れた露天の陰からは、悟空、悟浄、八戒、そして李昌までが顔を覗かせて玄奘を見守っている。


 玄奘は憂鬱と緊張が入り混じったため息を吐くと、手に持っている一枚の紙に視線を落とす。それは、悟空が考えた玄奘用の台本だった。


 悟空が閃いた『いい考え』とは、玄奘に芝居をさせる、というものだったのである。


『いいですか、おっしょさん。おっしょさんは、これを、そらんじるだけでいいんです。犬コロの前で、この台詞を喋るだけ。ようございますか? 意味は考えずに~、覚えたまま~、口に出すだけ~。ね、嘘つきにはならないでしょ?』


 つまり悟空は、台詞として玄奘に『我爱你あいしてる』を言わせようとしているのだ。

 

 屁理屈であった。詐欺ともいえた。理論武装になど、なりはしない。


 誰もがそう思った。恐らく、考え出した悟空自身でさえ。

 しかし残念な事に、そこにいる誰一人として、この屁理屈に勝る名案を捻りだす事が出来なかったのだ。


 玄奘は処刑場に向かう心地で、三日間通いつめたカトゥー族の露店の前に立った。



 ★


 後ろから見守る悟空らは、これまで見たことが無いほど迷い落ち込んでいる玄奘の背中を見つめていた。


「これでは、いよいよ生臭坊主だ」


 悟空の案に最後までケチをつけていた李昌が、まだ納得できないといった様子で苦情を呟いた。

 悟空が「けっ」とうるさそうに李昌を振り返る。


「生臭かろうがかぐわしかろうが、犬っコロを引っぱりだす為だ。手段なんか選んでられっかよ」


「後で恨まれても知らないワよ、アタクシ」


「こんな兄貴でも仏になれたんだから、仏界もお優しいよねぇ」


 不承不承、悟空の案をのんだ弟弟子おとうとでしの二人も、不安がぬぐえない様子である。玄奘をみつめる二人の眼差しには、同情がこもっていた。


 四人が見守る中。玄奘が、店じまいの準備をしている沙羅に声をかける。

 

「あら、玄奘様」

 

 三日前に初めて会った時の不審げな声とは違い、すっかり気を許した沙羅の弾んだ応答が聞こえた。 


 ★


 「沙羅」と呼ぶと、振り返ったカトゥーの娘は、「あら、玄奘様」と応じてくれた。

 箱に織物を片付けている手を止めて、ほっとしたような笑顔を浮かべた彼女は、売れ残った果物をまとめている母親と父親に向かって「ちょっと出てくる」と一声をかけて玄奘に走り寄る。


「ああ、よかったお会いできて。私達、今日この町を出ることになったんです」


 沙羅は胸に手を当てて寂しげに微笑むと「短い間でしたが、楽しかったです」と別れを告げた。


 いよいよ後が無くなった事を悟った玄奘は、しばし呆然とした後、「そう、ですか」と短く返事をした。

 実は今この瞬間まで、必死に他の手立てを探していたのだが、もはや迷っている暇はなしと覚悟を決める。


 悟空直筆の台本を袖の中に仕舞った玄奘は、沙羅を見つめた。


 焦げ茶色の無垢な瞳が、玄奘の視線を真っ直ぐに見つめ返してくる。澄んだ瞳は、彼女が恵まれた環境で生きている証でもあった。


 早鐘を打つ己の鼓動を感じながら、声が震えぬよう注意深く、玄奘は最初の一文を暗唱する。


「『沙羅、よく聞いて下さい』」


 目を瞬いた沙羅が、はい、とこたえる。


「『私は、あなたが何者でも、人でなくとも、どんな姿をしていても、かまいません』」


 沙羅が首を傾げた。『何を言っているのか分らない』といった様子である。当然だ。この世界の沙羅は、そもそも人間なのだから。

 玄奘は、彼女の中にいるはずである異界の娘に、自分の声が届いている事を一心に祈りながら、記憶した文面を口にする。


「『何故なら私は、あなたを、あ、あ……あ――』」


 しかし、そこからがどうしても続けられない。

 玄奘は奥歯を噛みしめ、俯いた。


 ★


 カトゥーの娘を前にした玄奘が、肝心な部分で詰まっている。悟空達は、その光景を焦れったい思いで見守っていた。


「こうなると思っていた……」


 李昌が『ほらみろ』と言わんばかりにため息を吐く一方で、弟子三名は手に汗を握り玄奘を応援している。


「師父、おいたわしや……!」


 悟浄は女言葉を忘れ、今にも泣きそうになっている。


「大丈夫、おっしょう様ならできるよ~」


 八戒は鼻をフガフガ鳴らしながら、声援エールを送っている。


「ホラ言って! 『我爱你!』『我爱你!』」


 悟空は拳を上下させながら、最後の一言を繰り返している。


 やがて、俯いていた玄奘が顔を上げ、再び沙羅を見つめて、一際大きな声でこう叫んだ。


「私は――」

  

 ★


 玄奘は、やはり疑問を払拭ふっしょくできなかったのだ。


 本当に、『我爱你』が正解なのか。

 沙羅が求めている幸福は、こんな薄っぺらい台詞の中に存在するのか。

 意を決してそらんじたところで、沙羅を自由にできるのか。


 否。


 という答えが玄奘の頭を埋め尽くした。

 口先だけの愛ではなく、自分が彼女に与えられるものを探さねばならない。


『慈悲じゃよ、玄奘』


 厳法師の言葉がふと蘇る。

 

 駄目だ。あの時のように、ただ僧侶の生き方に従って行動するだけでは、沙羅には届かない。

 取り戻したいならば、沙羅の心を満たすものを。その中で、自分が沙羅の為にできる、限界を――

 思いをこらした僅かの間の後、玄奘は一つの答えに辿り着いた。


「私は――」


 これが正解であるという自信はなかった。しかし、自分が彼女に与えられる最大の誠意はこれであるという確信はあった。

 玄奘は俯いていた顔を上げると、撤回はしないという確固たる決意の元、最後の台詞を変更する。


「私はあなたに、この体を差し上げます!」


 言った途端、遠くの方から「ダメだおっしょさん、それだけは言っちゃなんねえ!」という叫び声が聞こえた。

 しかし、もう後戻りはできない。するつもりも無かったが。


「今は無理です。けれどやるべき事を終えたら、腕も脚も、血も骨も好きなだけ! 約束します!」


 玄奘は、ぽかんとした顔で自分を見上げているカトゥーの娘を前に、彼女の中で自分の声を聞いているはずである沙羅に語りかけ続けた。



「ダメだおっしょさんそれだけは言っちゃんなんねえ!」


『自分の体を差し出す』などと、玄奘がとんでもない約束したものだから、悟空は慌てて止めに入ろうとした。しかし、悟浄、八戒、李昌の三人から同時に押さえ付けられ、「――ブベ!」という声を上げて潰れてしまう。


「情熱的だな。玄奘殿は還俗げんぞくなさる気か?」


 悟空の頭を地面に押しつけながら、李昌が眉をひそめる。


「いや、あれは本当、言葉どーりでございまして」


 悟空の脚を両手で押さえている悟浄が、説明に困りながら律儀に答えた。


「実現したら還俗どころか、あっという間にあっちの人になっちゃうのにねぇ」

 

 悟空の背中に全身をドッシリと乗せた八戒が、右前足のひづめを上に向けてお空あの世を指さした。


「ああああ~っ、おっしょさ~ん!」


 悟空はむせび泣いていた。


 もはや玄奘と沙羅を見守っているのは、悟空達だけではなくなっていた。僧が若い娘を前に、情熱的な言葉を吐いている。人だかりを作る理由としては、それで十分だった。



 往来の人々が玄奘と沙羅に注目し、足を止めはじめた。


「おい、あんた坊さんだろう! 娘に何言ってやがんだ!」


 異変を察知した沙羅の父親が、怒鳴りながら足早に近づいてくる。


 沙羅は赤面して固まっていた。しかし一歩も退かず、視線はしっかりと玄奘の両目をとらえている。そこから先の言葉を待っているようでもあった。

 

「だから、どうか戻ってきて下さい! 私達の元に、ここに!」


 仏に祈り。目の前の娘の中にとらわれている沙羅に祈り――

 気付けば玄奘は、合掌で懇願していた。


 野次馬達は、可愛らしい乙女の返事を、今や遅しと待っている。


「わ、わたし――」 


 一歩踏み出したカトゥーの娘が、玄奘に手をのばす。

 しかしその体は突如後ろへ倒れ、彼女の手は玄奘に届かなかった。

 何かにつまづいたわけではない。後ろにいた彼女の父親が、引き戻したわけでもない。

 あえて言うなら、押し返されたのである。もう一人の沙羅が、彼女の中から出てきた反動によって。


 カトゥーの娘の体から飛び出した沙羅は、玄奘に両腕をのばすと迷わず首に抱きついた。


「……まだマズそうだからムリ」

 

 鼻水をすする音。そして涙まじりの声が、玄奘の耳元でそう答える。


 飾り気のない黒い服。両側頭部に小さくまとめたお団子と、腰に流れる豊かな黒髪。華奢な肩。玄奘は己の掌と目で一つ一つを確認すると、腕の中に飛びこんできた人を強く抱きしめた。


「整えておきます」


 安堵とともに口からついて出た言葉は、玄奘自身が笑ってしまうくらいに純朴だった。



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