第45話 父の形見
『おお、すまんの。間違えて食うてもうたわ』
牛魔王がそう言ってペッと吐きだしたのが、沙羅の父親の牙であった。
牙一つ。
馬一頭を一飲みできそうなほど巨大な牛魔王の、歯の隙間から飛び出した小さなそれは、絶句したまま座りこんでいる沙羅の頭にコツンと当たって地面に落ちた。
貢物と一緒に鷲掴みにされ、山の如き腹ペコ牛の口に放り込まれた父。吐き出されたのは、そこにいた村人たちが「あ」と声を上げた数秒後の事である。変わり果てた姿で戻ってきた父は、その身の九割九分を、牛魔王の腹の中に残してきたのだ。
『ホレ、娘っ子。とーちゃんのお帰りじゃ』
牛魔王は血走った目で沙羅を見下ろし、ガハハと豪快に笑った。
悪い冗談である。『おかえり』などと誰が言えようか。
母はショックのあまり気を失い、目覚めたのは三日後だった。
★
「仏界から逃げてきたばかりの牛魔王は、
牛魔王に出会った当時を語る沙羅は、父親の形見である牙の首飾りを首から外し、掌の上に置いて、しばし眺めた。
やがて形見をきゅっと握りこむと、荒涼とした地平線の向こうに去りゆくカトゥー族のキャラバン隊に目をやる。
沈んでゆく夕日に向かって歩むキャラバン隊は、乾いた大地に、幌付きの荷馬車や人々の長く伸びた影を連れて、沙羅や玄奘が見送っている丘から徐々に徐々に遠ざかる。
隊もその影も既に遠くにあり過ぎて、どの荷馬車が沙羅の家族の物かは、もはや玄奘には判別がつかなかった。
しかし沙羅は、見送りをやめて帰ろうとはせず、キャラバン隊を見つめ続ける。夕日に照らされ眩しげに歪めているその表情は、寂しげにも、悔しげにも、苦しげにも見えた。
ふ、と沙羅が、ため息を吐く。
「毎日毎日、飲んだくれてばかりのとーちゃんがね。他の家と同じように、ありったけの食べ物を袋に詰めて、牛魔王の前に持って行こうとしたあたしを押し
「――で、あっけなく喰われたわけなんだねぇ……」
獣人の姿に戻った八戒が、茶々を入れる。すぐさま悟空と悟浄に頭を叩かれた。
三人が喧嘩を始めた気配を背中で感じながら、玄奘は「あなたを守ろうとなさったんですね」と己の見解を静かに述べる。
こちらの沙羅の父親も、そうであった。娘の体からもう一人の娘を引っぱりだした得体のしれない僧侶(玄奘)から、興味本位に群がってくる人々から、娘を守るため必死に立ち回っていた。
最後の別れ際まで、「とっとと失せろ!」と玄奘らを追い払おうとしていた沙羅の父。少々口調が荒く粗野な男ではあったが、家族を危険にさらすまいという思いは玄奘にもひしひしと伝わってきた。
「ガラにもない事するからバカをみたんだよ」
沙羅はしかめっ面を深くして、吐き捨てるように言う。
「だって、いつもは全部、あたしやかーちゃんにやらせてたクセして」
そして、「あのバカ親父!」と罵った沙羅は、父親の形見を地面に叩きつけた。
「とーちゃんがあたしを押しのけて前に出たりしなけりゃ、あたしは今でも、とーちゃんを嫌いなままで、いられたの! こんな気持ちになる事なんて、なかったのに!」
両の拳を握りしめ、沙羅は胸の内を吐露する。
玄奘は、その苦しげな声を聞きながら、黒い紐が通されている小指の先ほどの牙を拾い上げた。
紐や牙についた砂を払い、沙羅の前に差し出す。
「これは、貴方が一度、父君を許した証です。捨てるのはまだ早い」
しかし沙羅は、玄奘の掌に乗せられた父の形見に、手をのばそうとはしなかった。黙したまま、睨むようにじっと首飾りを見据える。
その姿は意地を張っている子供のように、玄奘の目には映った。
「さあ、どうぞ」
形見をまた少し沙羅に近づけた玄奘が、優しく声をかける。
と、沙羅の目から大粒の涙がぼろりと零れ落ちた。そこから先は天を仰ぎ、火がついたように号泣する。
「う゛わ~ぁぁぁん!」
その大きな泣き声は、土ぼこりが上がるほどに取っ組み合っていた悟空達を、ピタリと静止させた。
仲間達の視線をその身に集めた沙羅は、見られている事などお構いなしといった様子で、堂々たる泣きっぷりを披露する。
「うら、羨ましいんだよぉ! こっちのあたし、とうちゃん、マトモで、母ちゃん元気で、妹、が、二人もいて、お洒落して、と、友達までいるんだよぉ!」
言葉の途中で幾度もしゃくりあげながら、切れ切れに、しかしはっきりと、沙羅は自分が取りこまれた理由を明かした。
「ええ。そうですね」
玄奘は共感の印に、何度も頷いた。
玄奘も、初見の時に気付いていた。沙羅と同じ姿をしたカトゥーの娘は、沙羅が欲しがっているものを全て持っていたのである。さも当然のように。
圧倒的な敗北感。強烈な
あの娘の中でじっと耐えるしかなかった沙羅の心を思うと、玄奘も胸が痛んだ。しかし――
玄奘は父親の形見を沙羅の首にそっとかけると、己の袖を使い、涙と鼻水で濡れている沙羅の顔を拭いてやる。
「今あなたの前には、私がいます。私の後ろには、悟空や八戒や悟浄。それから、玉龍も。今はそれで、手を打っておきませんか」
釈迦は、苦しむ者に『執着を捨てよ』と説いていた。執着は苦しみを生む元凶となるが故である。もし信仰すら執着になり得るのならば、それも捨てよ、と。
欲する事、すなわち欲は、執着である。
しかしそれをそのまま沙羅に説いて聞かせた所で飲みこんではもらえないだろう、とも玄奘は考えていた。沙羅には仏の教義ではなく、己の言葉で語らねばならない。
玄奘の右の袖口をたっぷりと濡らした代わりにすっかり乾いた顔を上げた沙羅が、鼻水をすすりながら、玄奘の胸元に片手を添える。
「わかった」と小さく答えた。
次いで沙羅は、玄奘の後ろを指さす。その指が指し示す先には、如意棒を担ぎ、いつもの虎のさるまたを履いた悟空。ボロボロの黄色い
「でも。あいつらは、要らないよ」
減らず口を聞いた三人と一頭は、さも『呆れた』といった風に、両目をまん丸にして顎を落とした。
玄奘も、沙羅のへそ曲りぶりに思わず苦笑う。
いち早く立ち直った悟空が、肩を怒らせ、沙羅に向かって唾を飛ばす。
「何言っとんじゃい! オメエはこれから、おっしょさんとじゃなくてオイラ達と行くんだろうが!」
「――え?」
悟空の言葉を聞いた玄奘は、信じられない思いで聞き返した。
それは、ここでお別れという意味か。と
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