第46話 貞観二年 弘福寺にて

「それで、悟空らとはそこで別々に?」


 私――道昭どうしょうは、隣に腰かけておられる三蔵師父に訊ねた。

 

 師父は両の袖口に互い違いに腕を入れ、空を仰いでおられる。

 どんよりとした暗雲からは、しとしとと雨が降っている。今朝からずっとだ。


 私達が座っている軒先の石段も、まだ十月の半ばだというのに、この雨ですっかり冷やされてしまっていた。私達の目の前に広がる蓮池には、昼を過ぎて花を閉じたものの中に、今日を最後に散ってしまう幾つかが花弁を広げたまま、その身を寒々と雨粒に濡らしている。


「……シー(ええ)」


 と師父の口から白い息と共に肯定の言葉が出された気がしたが、ただのため息にも聞きとれた。


 説法や読経の際には朗々と響きわたる三蔵師父のお声であるが、普段は空気を孕んだように柔らかい。それ故に、大和の国から派遣された遣唐使の私には、普段の師父のお声から成る中国語は、時折、聞き取りきれない時がある。

 もう一度聞きなおそうか迷っていると、師父がふと私に顔をお向けになった。


「ええ、お別れしましたよ」


 目尻の皺を深くされた師父は、穏やかな微笑で今度ははっきりと、お答えになった。

 私が上手く聞き取れなかった事をお察しになったのかもしれない。師父は、そういう方である。


「沙羅は随分嫌がりましたが、結局、悟空達と先に瓜州かしゅうを発ちました。私は馬を探さねばならなかったので、残りました」


「それは……」


 さぞお寂しかった事だろう。

 私は言い淀んだ先に、心の中でそのように付け加えた。師父のような大きなお方に向かってこのような同情じみた言葉を実際口にするのは、傲慢であると思ったからである。

 その代わり私は、新たな質問を投げかけた。


「しかし何故彼らは師父と別行動を取らねばならなかったのです? 師父をお守りする役目を担ったのであれば、師父の傍にいるべきではありませんか」


「そもそも、同行するのは瓜州まで、という約束だったのです。すっかり失念していましたが」


「あ」


 当時の師父と同じく、双叉嶺そうしゃれいで交わされた約束を失念していた私は、ぱかりと口を開けて空を仰ぎ見た。


 そうだった。そういえば、悟空らは慧琳えりん道整どうせいの代わりに瓜州まで同行したのだ。


 私のつらがさぞかし間抜けであったのだろう。師父が小さく声に出してお笑いになった。


「あなたも忘れていましたか」


 はい、忘れておりました。と私は禿頭をかいた。


 師父の髪は私よりもほんの少しだけ長い。私が毎朝毎朝きっちりと剃り過ぎているのもあるが、師父が爪の先ほどくらいまで髪を放っておくのは、旅をしていた時の名残なのだと、師父自身が仰っていた。


 玄奘三蔵。


 師父は僧名を玄奘。尊称は三蔵。故に、我らは三蔵師父と呼ぶ。三蔵師父は、私、道昭の師匠であらせられる。

 ここ唐で、三蔵師父を知らぬ者はいない。


 真の仏教を広めんと、経典の原文をお求めになった師父は、齢二十八にして、唐の長安を密出国された。当時、唐は外国への旅行を禁じていた。国の秩序が乱れていた故である。


 手には錫杖一本。行李こうりを背負った師父は、時には独りで、時には誰かと連れ合いながら、ひたすら西へ西へと歩まれた。

 艱難辛苦の旅の末、天竺に辿りつかれた師父は、ナーランダー僧院を始めとした学問所で仏教研究にいそしまれた。そして、経典六五七部及び仏像などを持って帰還されたのが、長安を出立した十六年後の事である。

 

 現在、師父はここ、弘福寺こうふくじで、持ち返った経典の翻訳に従事されている。

 

 皇帝は師父の帰国後、側近として国政に参じるよう望まれたが、師父はこれをお断りになった。持ち帰った経典の翻訳を第一の使命と考えておられた故である。

 その代わりに師父は、西域せいいきで見聞した諸々の情報をまとめるよう、皇帝から仰せつかった。『大唐西域記』と題されたこれには、師父の一番弟子であらせられる弁機べんき殿が 口述筆記役として西域記を編纂されている。


 国禁を破った出国にはじまり、砂漠で命を落としかけ、雪山では何人もの伴を失ったという難行苦行のその旅行談は、何度聞いても頭が下がる思いである。流石は、異例の十三歳で僧となる国家試験『度』に合格された天才であらせられる、としか言いようがない。


 常人離れした体力、知力、精神力。更に行く先々で人々を魅了したそのお人柄は、国の宝と言っても過言ではない。おまけに錫杖一本で、刀を手にした盗賊どもと渡り合ったという豪傑でもある。


 今でこそ、そのお姿は旅の苦労が祟ったのか、五十一というお歳の割には少々老けておられるが、若い頃はさぞかし眉目秀麗であらせられたのであろうと、現在のお姿から察するのは容易い。


 師父は、大和の国から派遣された遣唐使である私にまでも目をかけて下さる。有難い事に私は、師父の部屋の一角を生活の場として与えられた。故に私は、師父と寝食を共にし、ご指導頂くという栄誉にあずかっている。

 

 出家するにあたって、三蔵師父に、女色と酒肉を断たないことを条件として要求し、僧となってからは酒、女、そして経典を載せる三つの車を率いているというという僧侶の事も、師父は可愛がっておられるが、私は奴の様な不良坊主ではない。三車法師という不名誉なあだ名を頂戴して喜んでいる阿呆と並んで師父の旅物語を拝聴せねばならぬ時もあるが、私としては遺憾である。

 

 基の横やりに腹を立てる事もなく、今日のように師父と二人並んでゆっくりとお話を聞く時間は至福と言えよう。


 そういえば基は、師父がお話になっている猪八戒と似ているところがある。師父が基に目をおかけになる理由はそこなのかもしれない。

 実は私も、師父から「西域への旅の最中で、梨を分け与えてくれた僧に似ている」と言われた事があるのだ。


――そうか。基も昔馴染みに似ているのか。ならば目をかけられるのもいたしかたない。


 師父のお話が沙羅の語りになるたびに、姿勢を整え熱心に耳を傾ける基の態度には正直閉口していたが、八戒という妖怪がやっているのだと思えば我慢もできる気がする。


「あ。そういえば、師父」


 ここで私は、一つ疑問を抱いていた事を思い出す。


「悟空らの名が、『大唐西域記』に記されていないのは何故ですか」


 理由を訊ねると師父は


「彼らは私と旅を共にし、また命を落とした同志と同じであるからです」


 とお答えになった。


「なるほど」


 私は頷いた。 

 『大唐西域記』には、その土地や人々の様子、王については触れられているものの、師父と旅を共にした同志についての詳細は、記されていないのである。


「それに、彼らの話を加えてしまうと、旅行記ではなく奇譚の類になってしまうので」


「なるほど!」


 私は先程よりも力強く頷いた。


「ということは、瓜州で別れてから後も、妖怪や悟空らとは遭遇しているということですね」


 私が確認すると、師父は楽しげに目を細められた。 ええ、何度も、何度も。と、お答えになる。


「悟空は、私と旅を共にしない理由の一つとして、自分達と一緒に居ては、私の旅に遅れが生じるからだと言いました。事実それまで妖怪を相手にして、随分足止めをされましたし。それに、私にはこれから、旅の同伴者が多数現れるはずだから、それを邪魔しない為だとも言っておりました」


 そうだった。悟空は釈迦から師父の旅の工程表なるものを頂いていたのである。それもすっかり失念していた。

 悟空は、師父が瓜州から先でどのような旅路を歩まれるか、分っていたのである。

 ならば、厄介事を呼んでしまう自分達の存在は、師父にとって邪魔であろうと考えたに違いない。


「悟空は、やはり師父を守ろうとしていたのですね」


 話を聞いていた限り師父にべったりだった悟空が、何故師父と別行動を取る選択をしたのか釈然としていなかった私は、やっと納得のいく答えを見つけた気がした。


 師父は温かな微笑みを一層深くされると、そうかもしれません。と静かに肯定された。


「私を狙ってくる妖怪も大勢いましたので、別れてからも、悟空らには随分世話をかけました。面倒が起きる度に彼らと出会えたのは、近くで見守ってくれていた証なのでしょう」


 他にどんな妖怪に出会ったのですかと興味津々で訊ねた私に、師父は「それはまた、次にしましょう」とお笑いになり、石段から腰を上げた。


「そろそろあの子に食事を運んであげなければ。腹をすかせていることだろうから」


 そう言って、雨を避けるように、軒下に沿って歩いてゆかれる。


 私は師父の後ろ姿を見送りながら、師父が仰った『あの子』に該当する存在に思考を巡らせた。


 あの子? ……ああ、師父が可愛がっておられる、あの黒犬か。


 そこで、はたと気がつく。あの黒犬は、そうだ。雌だったのだ、と。

 師父が旅からお帰りになった後に、京で拾った野良犬だと聞いてはいたが――


「師父、まさかあの黒犬は火を吹きますか」


 是が非でも聞かねばならぬと声を上げた私に、師父は顔半分だけ振り向かれた。そして「さて」と含み笑うと、また前を向いて、行ってしまわれたのである。

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