第47話 新たな伴

――悟空らと別れたとて、三蔵師父の旅は続く。

 新しい馬を手に入れた師父の旅のともとなったのは、沙羅を市場バザールで見つけ出したソグド人の青年、石槃陀せきばんだだった――

                             





 瓜州を出立する日の朝、李昌は玄奘と石槃陀を見送りに来た。


 濃い朝靄が、寺の境内をすっぽりと包みこんでいる。

 水で薄めた乳の中に世界が丸ごと沈み込んだような景色の中。李昌は、全身にまとわりついて絹のほうを重たくしてゆく霧をうるさく思いながら、痩せた赤馬に鞍を乗せている玄奘に歩み寄った。


「酷い馬だ。本当にこいつで行く気か?」


 石槃陀の知人から買ったという老馬を舐めまわすように見ると、さも不安だと言いたげに、その神経質そうな目元に皺を作る。

 

 玄奘は、鞍の横に水袋を下げながら李昌にちらりと目をやると、旅支度の手を休める事無く控えめな笑顔で答える。


「長安に居た頃、何弘達かこうたつという占い師に言われた内容を思い出したのです。鞍橋の前に鉄をつけた漆鞍をつけた一頭の痩せた赤馬が、私を天竺へ導いてくれだろう、と」


 確かに鞍は漆塗りで、前輪には鉄の飾りがついている。馬は鹿毛かげで、貧相なほどに痩せている。

 占い通りのこの馬との出会いを、吉兆だと考える事もできるだろう。


 しかし、李昌はとことん現実的な男だった。

 不安な心情を醸し出していた目元の皺がよりいっそう深くなり、更にそれは顔全体に広がってゆく。


「占い師の言う事など」


 と、たまらず苦言を呈した。

 

 李昌の渋面を見た玄奘が、小さく声に出して笑う。


「たしかに玉龍に比べると見劣りはしますが、この子も十分に賢い。きっと大丈夫です」


 そう言って、赤馬の首筋を優しく叩く。

 馬は『期待に応えます』とでも言いたいのか、玄奘に顔を寄せると、僧服の袖をハムハムと噛んだ。


「まあ、玄奘殿がそう確信しているのであれば何も言う事はないが」


 渋面を苦笑いに変えた李昌は腕を組むと、寒さで丸くなっていた背中をのばした。背骨がゴキリと音を立てる。


「ご心配には及びません」


 霧の向こうから若い男の声がして、間もなく玄奘の行李を担いだ石槃陀が現れた。一拍遅れて、石槃陀の後ろから黒い顎鬚を蓄えた、ややふっくらとした高僧も姿を見せる。彼はこの寺の住職、達磨であった。

 

 石槃陀が李昌に向かって、力強く拱手きょうしゅを取る。


「この石槃陀、受戒じゅかいした限りは必ずや、五烽ごほうの向こうまで師父をお連れいたします」


 石槃陀は昨日、玄奘から五戒を授かったばかりであった。

 沙羅の元へ案内したその日から音沙汰なかった彼ではあったが、先日久しぶりに達磨の寺に顔を見せたのである。そこで、玄奘が西方への旅の最中である事を知り、受戒を申し入れて案内役を買って出たのだった。


「彼の事は私もよく存じておりまする。若い割に気骨があるので、猿や豚よりは遥かに頼りになるでしょうて」


 悟空と八戒をただの動物だと信じて疑っていない達磨は、玄奘に石槃陀の授戒を勧めた時と全く同じ台詞で、馴染みの青年に二度目の太鼓判を押した。


「今度は、普通の人間だろうな? 玄奘殿」


 李昌が皮肉を交えて茶化してくる。


「李昌殿には、大変ご迷惑をおかけしました」


 玄奘は李昌に向かって合掌すると、深々と頭を下げた。


「まったくだ!」


 李昌は語気を強めて笑った。しかしすぐに


「だがしかし、面白いひと時だった」


 と温かく落ち着いた声色で言い継ぐ。

 続いて李昌は、頭を上げた玄奘から一歩後ろに下がると、肘を張って両手を胸の前に合わせた。玄奘に対する尊敬の分だけ深く腰を折り、拱手する。


 拱手でこれほどまでに腰を曲げたのは、儒教の師に拝して以来であった。李昌の目には固い地面と己のつま先しか見えない。

 しかし正面から伝わってくる衣擦れの音と気配で、李昌は再び玄奘が、頭を下げた事を感じ取る。

 

 律儀な玄奘の事である。自分と同じくらいもしくはそれ以上に深く腰を折っているのだろうと思いながら、李昌は頭を上げた。


 予想通り、最大限にしかし実に美しい姿勢で深いお辞儀をしていた玄奘が、李昌に一拍遅れる形で頭の位置を戻し、李昌と視線を合わせる。


 元気で。

 悲願が叶う事を祈っている。

 会えてよかった。


 模範的な別れの挨拶が幾つか頭に浮かんだが、李昌は心に生まれた素直な気持ちをそのまま伝えることにする。


「帰りは必ず寄ってくれ。それが不自然でない程度には、我々は親しい間柄になったはずだ」

 

 玄奘は眩しそうに目を細めると、「ええ」と大きく頷いた。


 達磨が、道中の腹の足しにと玄奘に焼餅を渡す。

 玄奘は麻の布に包まれたそれを押し頂くと、鞍に下げてあった袋の中に入れ、馬の手綱を取った。

 馬に余計な負担をかけない為に自らの足で歩くのが玄奘の信条である事を、短い付き合いの中で李昌は知っていた。

 

「では石槃陀。まいりましょう」


 玄奘が新しい弟子と並んで、見送る二人に合掌した。その後は、何も言わずするりと背中を向けて歩み始める。


 馬と、馬を引く玄奘そして行李を背負う石槃陀の後ろ姿が、徐々に深い霧の中へ沈むように消えてゆく。

 李昌は達磨の隣へと立ち位置を変えつつ、その様子をじっと見守る。


「寂しくなりますな」


 達磨がしみじみと言った。


 いやむしろ、寂しいのは玄奘の方であろう。


 李昌は達磨への返答を飲み込んだ。


 悟空らと旅路を分かつと玄奘から聞かされた時は、そのあまりに心もとなげな様子に思わず『大丈夫か』と問いかけてしまった。

 まるで友達の集団に一人置いて行かれてしまった少年のようにぽつんと佇んでいた玄奘は、どこかぼんやりとしていて、もしやこのまま西方への旅を諦めるのではないかという疑念を李昌に抱かせるほどにしょぼくれていた。


 悟空らが瓜州を発ち、五日。その間で玄奘は馬を買い、新しい弟子を取ったことで、顔つきは随分マシになった。吹っ切れたように見えなくも無い。

 しかし彼が全身に纏う気は、出会った頃よりも脆弱だ。

 背中も小さく縮こまっているようで、彼特有の超然とした気勢が感じられない。


「玄奘殿!」


 李昌は殆ど見えなくなったその後ろ姿に、大声で呼びかけた。

 馬の歩みが止まり、隣に居る玄奘が振り返ったのが微かに見て取れる。しかし深い霧に隠され、表情までは読み取れない。


 だがそれで十分だった。


 李昌はその場所から一歩も動かず、霧の向こうに居る友に向かって声を張り上げる。


猿野郎さるやろうに会ったら、『今度はちゃんと挨拶に来い』と伝えてくれ。あいつらめ、私に何も言わず町を出て行ったんだ」


 返事は来ない。

 躊躇ためらっているのだろうと思われた。

 玄奘はやはり、彼らとの再会を諦めているのだと、李昌は確信する。

 李昌は、力強くこう続けた。


「絶対にまた会える。頼んだぞ」


 しばしの沈黙の後、玄奘の「承知いたしました」という声が返ってきた。

 その声色に凛とした響きを聞き取った李昌は、満足して口角を上げる。


 再び、馬と二人の人影が動き始めた。

 李昌は、彼らの姿が完全に見えなくなる前に背を向ける。


「では」


 と達磨に挨拶してその場から立ち去った。


 達磨も間もなく、堂へ帰る。


 故に、二人は見逃してしまったのだ。

 霧の向こうへ一頭と二人が消えたその瞬間、石槃陀の影が大きく揺らぎ、そしてその影が、首と両手足の末端に大きな輪っかをつけた三個の角髪を持つ人の形を作った事を。

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