第36話 紺碧の人見知り、すなわち沙悟浄なり

「確認しておくが、猿は悟空、女は沙羅というのだな?」


「さようでございます」

 

 李昌と玄奘は、横に並んで板張りの廊下を進む。

 二人の颯爽とした様子に、すれ違う役人たちは思わず道をあけた。


 李昌は、人探しの手助けを申し出た。仲間が見つからずいつまでたっても瓜州を発てないのでは、人相手配書を破った意味がない、という理由である。


「それで玄奘殿は今、連れのお二人と独孤達どくこたつ(知事)の家に身を寄せておられると?」


「はい。彼は私を密出国者とは御存知なく、善意で置いて下さっています。どうか、処分はお見逃し下さい」


 両手を後ろに組んで隣を歩く李昌に、玄奘は合掌で願う。

 役所の建物を出ると、太い松の木の向こうに、往来をつなぐ朱塗りの門が見えた。

 門前には、連行される際に付き添ってくれた八戒や悟浄が待っているはずだ。


『師父がお戻りになるまで、ここから一歩も動かずおりますゆえ、ご安心めされ』


 門のど真ん中に立った悟浄が、そのいかつい顔をキリリと引き締め、抱拳礼ほうけんれい(右手を拳に、左手を掌にして胸の前で合わせるポーズ)で玄奘を見送ったのは、数時間前の事。

 彼は、門を出入りする市民や役人に、不審げな目を向けられながらも、実に堂々としていた。


 悟浄の言葉を信じていた玄奘は、李昌を見たまま、「連れの悟浄と、八戒です」と門の方に掌を向けて紹介する。


 李昌が、その濃い眉をひそめた。


「どこにいる?」


 二人の目の前には、髭を生やした門番以外、誰もいなかった。

 朱塗りの柱に挟まれたぽっかりとした空間を、真昼の陽がさんさんと照らしているだけである。


 玄奘は言葉を失った。

 門に掌を向けたまま、二人が消えた理由と行き先を必死に考える。


 李昌は、そんな玄奘と、連れの二人が消えてしまった空虚な空間を、ゆったりとした様子で交互に見る。


「もしや、帰ったか?」

「いえまさか」


 李昌が述べた可能性に対し、即刻否定した玄奘だったが、かと言って消えた理由もはっきりとせず、再び考え込む。


 そんな二人の前で、門番が「んんっ!」と咳払いをして注意を引いた。そして、視線だけを動かした彼は、門の外を示す。


 タイミング良く、役所の敷地を囲む土壁の向こうから、バタバタとした足音が聞こえてきた。


「これこれ、おなごの後ばかりついて歩くな! 迷子になるぞ!」


 悟浄の声である。

 続いて、ブヒブヒという豚の鳴き声が。これは八戒で間違いない。


 ほどなくして、子供が乗れるほどの大きな黒豚を胸に抱えた青黒い大男が現れた。豚の顔に隠れて、男の顔面は見えない。


 李昌が「おおっ!」と驚いて一歩、後ずさる。


「まったくお前は! 首に縄をかけられたくなくば、大人しくしておれ!」


 大男は、豚を叱りつけながら門の真ん中によっこらしょ、と下ろした。正面にいた玄奘と目が合うなり、


「おお師父、戻ってこられましたか。よかったよかった!」


 と、破顔する。


「こちらが悟浄です」


 ほっとした玄奘は、改めて李昌に紹介した。

 それにあわせて、悟浄がペコリと頭を下げる。


「ど、どんも。沙悟浄でございましゅる」


 残念な事に人見知りが発動し、若干自己紹介に失敗したようだが、李昌は笑わなかった。それどころか、心配そうに悟浄を覗きこみ、おぬし医者が必要か? と訊ねる。


「今にも死にそうな顔色をしておるぞ。具合が悪いのではないか?」


 しまった!


 自分達の過失に気付いた玄奘と悟浄は、引きつった顔を見合わせた。 


 

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