瓜州にて

第35話 李昌という州吏

 とんでもない知性を感じるが、頑固そうな男だ。


 瓜州かしゅう州吏しゅうり(行政担当の役人)、李昌りしょうは、自分の執務室に連行されて来た青年僧を前にして、まずそう思った。

 憲兵に挟まれたその若い男は静かにたたずみ、恐れも不安も感じさせない。

 あまりに堂々としているので、彼を連れて来た憲兵が、付き人のようにさえ見える。

 

「さて――」


 李昌は、先日届いた人相手配書と、目の前の僧を見比べた。


 目の前の青年僧は、擦り切れた綿の法衣に、日に焼けた体。胸の前で合掌している指先はごわごわとひび割れ、のびかけの頭髪や無精髭には手入れの限界が見てとれる。どこからどうみても旅人だ。


 一方、手配書にはこうあった。

 年のころ、二十代後半。およそ六尺(およそ一八十センチ)。やせ形でありながら骨格は頑丈。強健である。

 

 会ったばかりなので強健かどうかは分らぬが、その他は合致している。しかし、相貌は人相書きよりも精悍だと感じた。


 もしこの男が手配書の玄奘であるならば、涼州りょうしゅう都督ととくは似顔絵師を変えねばなるまい。

 どうにも、この絵を書いた似顔絵師は、『僧』という先入観に踊らされている気がした。人相書きの玄奘は、知的ではあるが、線が細く、どことなくはかなげだ。

 一寸の乱れもなく整った襟元や、綺麗に反り上げられた頭も、旅人の描画としては相応しくない。


「尊師は、ここに書かれている御仁ごじんか?」


 どちらかというと、この似顔絵は自分に似ているな、と内心可笑しく思いながら、李昌は自分と同じ年頃の青年僧に問いかけた。


 青年僧は視線を落としたまま、答えなかった。


 まあ当然であろう。と李昌は思った。

 不妄語戒ふもうごかい (嘘はつかない)を約束しているとはいえ、この状況で「はい」と答える阿呆はいないだろう。それでよかった。裏を解せば、この沈黙は肯定としてとれる。

 思わず、ふ、と小さな笑みをこぼしてしまった。

 途端、青年僧が視線を下げたまま、微かに眉を寄せた。笑われて不愉快に感じた、というよりは、笑われた理由が分らぬ、といった風である。


「いや失礼」 


 李昌は気にするな、という意味を込めて謝罪をした。


 李昌は仏教を崇信していた。故に、目の前の男が手配書の僧であったとしてもなかったとしても、自分はこの僧に対して無碍むげな扱いはしない、という確信はあった。この男には、それをまず伝えねばならなかった、と軽く反省する。


「真実を述べていただければ、私は師のために良いように取り計らう事も出来ますが」


 誠意を込めてそう言うと、青年僧が初めて視線を上げて李昌を見た。鋭い眦の奥にある力強い目が、李昌を射抜くようにとらえる。

 しかしそれは一瞬で、すぐにまた、青年僧は視線を下げる。


「名は玄奘。人相書きの僧にございます」


 李昌を信用できると判断したのだろう。彼は、合掌したまま小さく頭を下げて名乗った。


 やはり似顔絵師は解雇すべきだろう。

 視線で射抜かれた瞬間、心の奥底まで見透かされた心地になった李昌は、絵師の無能を確信した。こんな強烈な眼力を持つ男を、こんな頼りない線で描くとは。


 玄奘は、中国に伝わった仏教経典には異訳が溢れ、解釈も様々である事。故に、天竺へ行って真の仏教を学びたく再三上表じょうひょうしたが、許可が下りなかった事。求法の旅を諦められず、仕方なく難民とともに長安を出て、潜行の旅路を歩んできた事など、これまでの旅の詳細をつぶさに語った。悟空達、妖魔の話は除いて。 


稀有けうなお人だな」


 話を聞き終えた李昌は、感心を通り越して呆れていた。


「この難所を過ぎたとしても、玉門関ぎょくもんかんを通るのは不可能だ。その先は五峰の烽台があるが、水を得られるのはそこのみ。奇跡的に五峰を通過できても、次の伊吾いご国までに広がる大砂漠は越えられない。死にに行くようなものだ」


「存じております」


 と、玄奘はすぐに応じた。


「しかし私には、西へ進み続ける道しかございません。途中死んだとしても、悔いはいたしません」


 微動だにせず、静かにそう続ける。

 

 李昌は、長安へ帰るよう玄奘をさとす準備が出来ていた。しかし、玄奘のとてつもない強い意思を感じ取り、思い直す。


「承知した」


 李昌は呟くと、手に持っていた玄奘の手配書を二つに破った。


 玄奘は驚いていた。当然である。手配書を破り捨て、密出国の手助けをしたと知られれば、李昌も罪に問われるのだから。

 

 李昌はさらに細かく手配書を破きながら、玄奘に言った。


「これが私の敬意です。しかし、これ以上の手助けはできかねます。私以外の役人に拘束される前に、早くここを出立して下さい」


 玄奘はわずかばかり目を泳がせると、これまでで一番、深く頭を下げた。玄奘とほぼ同じくらいの背丈がある李昌の目に、日に焼けた首筋が映る。


「出立できない理由がございます。どうかもう暫く、こちらでの滞在をお許し頂きたく」


「ほう。その理由とは?」


「瓜州に到着してから、私はずっと、人を探しております」


「人? 待ち合わせでもしていたのか?」


 李昌の問いかけに答えるように、玄奘が顔を上げる。


 李昌はギョッとした。頭を下げるまでは微塵も崩れていなかった、高僧らしい磨き抜かれた風貌が消え失せていたからだ。そこにあったのは、限界までまなじりを下げた、不安と心配に押し潰されそうになっている、一人の青年の顔だった。

 

「州吏殿は、赤い鉄棒を持って虎の皮のさるまたを履いた白猿と、上下黒い胡服に身を包んだ女性をご存知ありませんか?」

 

 玄奘が、必死の形相で訊ねる。

 瓜州に入ってすぐ、悟空と沙羅の姿が消えていた。四日前の事だった。

 


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