第34話 烏巣禅師からの警告

 湯あたりだった。


 それもそのはずである。沙羅は、湯船の端の方でのんびり浸かっていた悟空達とは違い、常に源泉に当たっているに等しい状態だったのだ。しかも、背中に背負わされた石は沙羅の熱を吸収し、熱くなるばかり。

 目を回さない方がおかしい。


「すみません、沙羅。もっと早くに気付くべきでした」


 玄奘が謝りながら、大事な『般若心経』の経典で沙羅の顔をバタバタと仰ぐ。

 

 沙羅は木陰に敷いたむしろの上に寝かされていた。白面はほてって真っ赤になっており、頭痛もあるのか息も苦しげである。


「情けねえなぁ。『火吹き犬』のクセして」


 川の水で手ぬぐいを濡らしてきた悟空が、沙羅の顔面にベチャリと手ぬぐいを落とした。沙羅が「ぶっ!」とくぐもった声を出し、べったり濡れた両腕が跳ねあがる。

 

「悟空!」


 玄奘は、思わずキツイ口調で悟空を叱りつける。


 悟空は小さな舌を出すと、「ブビー」という音を立てて、顔面に垂直落下してきた濡れ手ぬぐいを必死に取ろうとしている沙羅に向かって唾を飛ばした。そのままくるりと背を向け、露天風呂の掃除をしている八戒と悟浄の元へ走ってゆく。

 八戒と悟浄は、悟空や獣たちの体から出た抜け毛を、必死に網ですくっていた。


「なんじゃあ? ヤキモチなんぞ焼きおって」


 沙羅の枕元に胡坐をかいている烏巣禅師が、実に面妖だと言わんばかりに顎をこすった。

 玄奘は、般若心経で沙羅を仰ぎながら説明する。


「どうも彼は沙羅に対して、妙な競争心を抱いているようでして」


「ほおん。モテるのう、おぬし」


「ええ?」


 禅師の物言いに、玄奘は苦笑った。 


 禅師は手をふりながら、「いやいや。ほんに、ほんに」と玄奘が否定したがっているのを退ける。

 

「あいつのは、親に甘えたがっておる子供と同じじゃよ。あっちの三蔵は手がかかったからの。むしろ悟空は、保護者のように振る舞っておったが」


 顎をかいて斜め右に目をやりながら、禅師はあちらの世界で出会った三蔵一行の様子を説明する。


 禅師が三蔵一行と出会ったのは、八戒が三蔵の弟子になってすぐの頃だった。故に、沙悟浄はまだ仲間入りしていなかったが、その頃から既に、悟空は甲斐甲斐しく三蔵の世話を焼いていたという。

 三蔵が、腹が減ったと言えば筋斗雲に乗って托鉢に出かけ、疲れたと言えば地面にさっと筵を敷いて馬から降りるのを手伝い、妖怪の気配がすれば、三蔵の安全を確保した上で、まず自分が様子を見に行く。

 時には自分が留守中の、三蔵のご機嫌取り要員まで用意する始末だった。

 そして、たまにやんちゃが過ぎれば緊箍呪きんこじゅでお仕置きをくらう。


「いやほんと、下僕が板についておったわ」


 禅師はカラカラと笑った。


 一方、玄奘は悟空が気の毒過ぎて笑えなかった。悟浄や八戒からは、悟空は手のつけられない暴れ者で三蔵も手を焼いていたと聞かされていただけだったので、悟空がそのような苦労をしていたとは知らなかったのである。


「まあ、なんのかんの言いながら好きでやっとったんじゃよ、あいつも。同情など、せんでよいよい」


 眉をハの字に下げた玄奘の心情を察した禅師が、明るく笑い飛ばす。


「同じ三蔵でも、玄奘殿は立派な包容力しとるでのう。子供がえりしとるんじゃろうて」


 すると、下の方から「ははっ」という力の無い笑い声がした。沙羅だ。沙羅は、濡れた手ぬぐいを額にあてながら、口元に薄笑いを浮かべている。


「何百年も生きてるジジイ猿が、子供がえりとか、笑える」


 弱々しい声で、憎まれ口を叩いた。


「沙羅……」


 悟空に負けず劣らず、こっちも相当な『減らず口』だ。玄奘は呆れた。


「沙羅、悟空は悟空なりにあなたを心配――」「あっつ! それ何!?」


 玄奘がたしなめようとしたところ、沙羅が悲鳴を上げて左腕を引いた。団扇代わりに使っていた般若心経の経典が、沙羅の左腕にあたったのだ。


 ぽかんとする玄奘に、禅師が説明する。


「妖怪は、般若心経は嫌いじゃよ。経典に触ると火傷するし、唱えると頭痛うなるでな」


「そうだったんですか。すみません!」

 

 玄奘は慌てて『般若心経』を自分の後ろにやった。


 出会った時に、宗教は体に合わないと言っていた沙羅だったが、ものの例えでなく、本当に体を害するとは思っていなかった。


「般若心経は、妖怪から身を守るには丁度良いでな。あっちの三蔵には、ワシが口頭で伝授してやったのじゃが。お前さんはどこでそれを?」


 玄奘は、インドから来たある僧がハンセン病にかかっており、その僧の世話をした際に、お礼にと渡された経典がこの般若心経であると説明した。


「玄奘殿、それはよい事をなさった」

 

 禅師は菩薩のような微笑みをうかべて玄奘の行いを褒めた。

 その般若心経で、とんだ迷惑を被った沙羅はというと、禅師とは対照的に、赤く火ぶくれた左腕を抱えながら、「インド坊主め、余計な事を……!」と忌々しげに毒つく。

 

 禅師はそんな沙羅を見て、カカカと豪快に笑った。悪さをしたわけでもないのに、たった一瞬の接触で火傷を負わされた哀れな女妖怪を指さす。


「まあほれ、効果は見ての通りじゃて。いざとなったら妖怪にその本、投げつけてやったらよいわ」


 妖怪が聞いたら悲鳴を上げて逃げだしそうな台詞を、悪気のない笑顔でさらりと言った。


 ★


 それから三日ののち、玄奘は禅師の小屋を後にする。

 酸の酒による全身のただれは、すっかり回復し、行李を背負えるまでになった。


「大変お世話になりました」


 玄奘が深々とお辞儀をして、禅師に礼を述べた。その横で、悟空が玉龍に手綱をつけながら、禅師に訊ねる。


「そういや禅師。あんた、オイラ達に何か言いたい事があったんじゃねえのか?」


 禅師は悟空達に忠告があって、こっちの世界に来たと言っていた。悟空達は、それをまだ聞いていなかったのである。


 禅師は、「おう、それそれ」と目を丸くすると、悟空と沙羅に、こっちの世界の自分に気を付けろ、と警告した。


 悟空と沙羅は自分を指さすと、二人揃って首を傾げる。


「なにゆえ、悟空と沙羅の二人なのです?」


 自分や八戒は無関係なのか、と悟浄が聞いた。


「悟浄と八戒は元々天界人じゃが、悟空と沙羅は地上の生まれじゃ。ゆえにこっちの地上には、お前さんらの代わりになる者がおるでの」


「けどお釈迦様は、こっちの世界に孫悟空はいねえって言ってたぞ。なあ?」


 悟空に同意を求められ、八戒と悟浄と玉龍がこくこくと頷く。


「勿論、孫悟空という妖仙はおらん。しかし、魂を同じくした猿ならおるよ」


 さる。


 悟空がたっぷり数秒間、沈黙した。目だけはこれでもかというほどまん丸にひんいている。

 タイミング良く、禅師の足元で二匹の山猿が蚤取りグルーミングを始めた。ノミを摘まみ取った方の猿が、それを口に投げ込んでむしゃむしゃと咀嚼する。

 悟空は二匹の様子を茫然と眺めた後、禅師に確認する。


「猿……俺、ただの猿なの?」


「さよう」


「嘘だろ」


「嘘なものか」


 実際この目で見て来たと、自分のギョロ目を指し示しながら禅師は断言した。


 悟空はショックを隠せないといったように、大きく顎を落とすと、座りこんでしまう。いつも空に向かってふわりふわりと浮いている尻尾までが、だらりと地面に垂れさがった。


「元気出してよ兄貴ぃ。きっと、猿は猿でも比較的賢い猿だと思うよ?」


 八戒がフォローになっていないフォローをした。


「――で、あたしもこの世界じゃ、ただの犬なわけ?」


 沙羅がげんなりした様子で訊ねる。


 禅師は、沙羅については未確認で、犬である可能性も、人間の娘である可能性もあると答えた。

 ただし、悟空も沙羅も、こちらの自分に出会えば一目で分るであろう、と。


「よいか。この世界の自分を羨ましいと思ったり、負けたと感じれば、異界からやってきたお前達はこの世界のお前達に、たちどころに取り込まれてしまう。会ったとしても、深入りするでないぞ」


 忠告した禅師の顔に、笑顔は無かった。

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