第33話 薬湯につかりながら

「ちょっと、そこのマックロクロスケ! いい加減、縄をほどきなさいよ!」


 沙羅が烏巣禅師うそうぜんじに向かって牙をむく。今にも噛みつきそうな勢いだが、どう頑張っても沙羅は禅師に噛みつく事はできなかった。

 半径十五尺 (約五m)はある大きな露天風呂の真ん中に置かれた大岩に、がっちり縛られていたからである。


「いかんいかん。玄奘殿が襲われたら大変じゃからの」


 禿頭とくとうに手ぬぐいを置いた禅師が、ゆったりと湯につかりながら、隣の玄奘に向かって「ははは」と笑いかける。


 薄衣うすごろも一枚を身につけて湯に入り、その周りを創傷治癒そうしょうちゆに良い薬草袋で囲われた玄奘は、禅師に曖昧あいまいに笑って返した。ちなみにこの薬草袋は禅師特性である。沙羅が盗もうとしたものだった。


「襲うわけないでしょ大体なんなのこの面子は! ごった混ぜにもほどがあるわよ!」


 いつもの胡服のまま大岩に縛られ投げ込まれた沙羅は、悟空や八戒や悟浄までが湯船の中でくつろいでいる事に文句を言った。しかも、三人だけではない。玉龍や、禅師の元に集まって来た野生動物たちまでが仲良く薬湯に浸かっているのだ。

 その性別種族ごちゃまぜの混浴シーンはまるで、野生動物達が傷を癒しにやって来る山奥の秘湯である。


 風呂の端でふんぞり返っている悟空が、足で湯をばしゃばしゃ叩きながら沙羅に要求する。


「おい、ちょっと温くなってきたぞ。きっちり沸かせよ風呂釜ふろがま


「せめて最後に『女』を入れなさいよ!」


 呼び名に人格すら与えられなかった沙羅は、顔を真っ赤にして激昂げっこうする。その瞬間、沙羅の周りの湯がふわりと湯気を立てた。

 この温泉は、沙羅から発せられる熱で温められていた。火を吹く代わりに熱を体内に溜めこみ、水温を上げているのである。


「さてさて。おなごのエキスはどこら辺まで出てるのかなぁ?」


 八戒がブヘブヘと下品に鼻を鳴らしながら、沙羅に近づく。沙羅の間合いに入った途端、足で踏みつけられ沈められた。


「豚の色欲ぶりは相変わらずであるな」


「仏界じゃ、もうちっとマシだったんだけどな」


 乙女の足の下でバシャバシャともがいている哀れな豚を眺めながら、禅師と悟空がのんびりと会話する。


 やがて動かなくなった黒豚の八戒は、出腹を下にして、ぷかりと浮いてきた。フンドシをつけた尻が、瓢箪島ひょうたんじまのように見える。


「やれやれ」


 ため息をつきながら悟浄が立ちあがる。

 悟浄は瓢箪島のもとまでザバザバと湯を波立たせながら歩いてゆくと、豚耳をむんずとつかんだ。そのまま舟を引くように八戒を移動させると、その屈強な体で軽々風呂から引き上げる。

 気絶している八戒は、何の処置もされぬまま、河原の石の上にゴロリと転がされ放置となった。


「露天風呂を作った本人が風呂を楽しめんとは、残念な事である」


 『残念』な心境とは程遠い豪快な笑い声を上げながら、禅師が言った。


「師は朗らかですね」


 玄奘が何気なく口にした言葉にも、禅師はカラカラと笑って答える。


「おう。笑顔を嫌うやつはおるまい」


 玄奘は同意の印に何度も頷きながら「はい」と返事をした。


 鳥巣禅師の人を拒まない明朗な雰囲気には、玄奘も出会った時から好感を持っていた。悟浄も、出会って初めこそ緊張していたが、今ではすっかり肩の力を抜いて湯船に浮いている。体が大きい分、両脚をのばすと紺色の渡し橋のようだ。


「体の傷が癒えるまで、ここに置いてやろう。毎日薬湯に浸かれば、三、四日で痛みもなくなるであろうて」


 禅師は手ぬぐいで禿頭に浮かんだ汗を拭きながら、玄奘に湯治とうじを提案した。

 非情に有難い申し出だったが、玄奘は辞退する。


涼州りょうしゅうで、私の覚書が作られてしまいました。それが瓜州かしゅう敦煌とんこうに渡る前に、私は玉門関ぎょくもんかんを抜けねばなりません」


 役人の目を潜りぬけながらの旅であると説明した玄奘に、禅師は目を瞬いた。


「おやおや。急いだところで手遅れじゃぞ。おぬしの手配書を持った早馬は、とっくに瓜州に到着しておるでの」


「え!?」


 驚いた玄奘と悟空が立ち上がりかけた。悟空はすっぽんぽん。玄奘は薄衣一枚である。「ちょっと!」と沙羅が顔を真っ赤にして目を背けたので、玄奘は慌てて湯に沈んだ。


「そいつはホントかい!」


 悟空が掴みかからん勢いで禅師に詰め寄る。禅師は「坊主はウソはつかんよ」と答えると、大きな欠伸をした。


「まあ、あの州吏しし(行政担当の役人)なら、おぬしを悪いようにはせんじゃろう。安心せい」


 と、瓜州に出向いて見て来たように話す。

 それよりも今は傷ついた体を回復させる方が大事だと、禅師は説いた。


「万全の状態で行かねば、ふわあ。素早く動かねばならん時に体が言う事をきかんぞぉ。悪い事は言わんから、ゆっくりしてゆけ……むにゃむにゃ」


 言いながら気持ちよさげにまぶたを閉じた禅師は、イビキをかきはじめる。


「師父。今は先を急ぐよりも、まずは普通に馬に乗れるくらいまで回復される事が先決だと思いますぞ」


 悟浄が湯船に浮かびながら、玄奘に意見した。


 玄奘はしばし考えた。確かに、既に手配書が自分達を追い越しているなら、下手に急いでは身が危ない。ここは禅師や悟浄の言う通り、いざという時、迅速じんそくに動けるよう体調を整えておく方が賢明なのだろう。それに、この薬湯はとても利いている気がする。


「分りました」


 玄奘は頷いた。


 その時、悟空が沙羅の異変に気づく。


「おい、どうした風呂釜女?」


 そろそろと近づき、覗きこむ。


 沙羅は首を垂れて、動かなくなっていた。

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