第39話 悟空、戻る

「さあさあ! 本日、最終日。見てって寄ってって~っ。白猿、ゴクウの芸が始まるよ!」

 

 市場を抜けてすぐの宿屋の前では、十歳くらいの少年が、太鼓をたたきながら元気よく客引きをしている。

 少年の後ろには、両親らしい中年の男女が、曲芸の道具を観客に見せびらかすように高く掲げている。

 更にその後ろには、帳幕を張った二頭馬引きの大きな荷車がある。一家はここで寝起きしているのだろう。


 白猿は、えんという、荷車と馬を繋ぐ長い棒の上に座って、ぞろぞろと集まってくる客を眺めている。服を着ていない事以外は、やはり悟空そっくりである。


 玄奘らは、観客に紛れて猿回しを生業にする一家の様子を観察していた。


「ゴクウですか。名前も同じとは、恐れ入りましたな」


 黒豚を背負い、帷帽いぼう(布で顔を隠せる笠)を被った大柄の女が太い声で言った。藍色の漢服を着ている。


「悟浄殿! おなごらしく」


 すかさず、隣の李昌が注意した。


「オソレイッタワ」


 大柄の女――女装をした悟浄が、声色を高くして言い直した。


 昨日、街中を大声で叫びながら猿を追いかけ回した挙句迷子になった悟浄は、散々悪目立ちしてしまった。

 帷帽いぼうは李昌が考えた、これ以上の悪目立ち防止策である。

 女性のおしゃれ道具である帷帽いぼうを被るのであれば、衣服も女物で統一しなければ不自然だという理由で、女装に踏み切る結果となったのだ。

 

 だがいかんせん、これはこれで目立っていた。

 

 たっぶりと布を使った帷帽いぼうを被っているため、藍色の肌と隆々な筋骨は見事に隠されているが、李昌や玄奘より頭二つ分大きな女人というのも、人目を引くのである。しかも、はっかいを背負っているのだから尚更だ。


 李昌は幼子のように担がれている八戒を見上げ、顔をしかめた。


「せめて豚は下ろしたらどうだ」

 

「だって、『自分も見たい』っていうんデスモノぉ」 


 布の奥から、不自然に高い声が甘えたような口調で答えた。

 李昌はたまらず、身震いする。


 ばち(シンバルに似た楽器)の音が鳴り響き、猿の芸が始まった。


 ゴクウは、猿回しの男の掛け声に合わせて、竹馬に乗って跳ねたり、宙返りをしたり。また、毬の上で逆立ちをしたりと、様々な曲芸を披露して観客を楽しませる。


 見れば見るほど玄奘の中で、あの白猿は間違いなく悟空であると、確信めいたものが芽生えて来る。


――しかし、どうして悟空はあの猿に取り込まれたのか。


 烏巣禅師は、こちらの自分に取りこまれる条件として、羨望せんぼうや敗北感を上げていた。


 何故あの悟空が、この猿を羨ましいと思ったのか。また、敗北を感じたのか。玄奘には分らなかった。


 悟空は自惚れと呼んでもいいほどの自負を持っているし、この世界での旅にも意義を見出しているように見えていた。


『ただの猿なんかにオイラが負けるなんて、天地がひっくりかえってもありませんかんね!』


 瓜州に入る前には、悟空自身、そう豪語していたのに。


「本当にあの猿なのか? 玄奘殿」

 

 李昌に問いかけかれ、玄奘は「はい」と頷いた。悟浄も「間違いありんせんワ」と女声で言う。


「師父。このまま見ているだけジャア、悟空は戻って来れんせん。ここはひとつ、緊箍呪きんこじゅを唱えてみてはいかがかしらん?」


「それは……」


 玄奘は躊躇った。


 悟浄の言うように、このまま見ているだけでは、悟空は取り戻せないだろう。きっと、あの一家と店じまいをし、次の街へ旅立ってしまう。そして緊箍呪きんこじゅは、あの猿から悟空を引っぱりだす手段としては、最も確実であろうと思われた。むしろ今は、それしか方法が思いつかない。


 しかし、緊箍呪きんこじゅを唱えた時の悟空の苦しみようを思い出すと、玄奘は二の足を踏んでしまうのだ。


緊箍呪きんこじゅは、できれば使いたくありません」


「エエ~?」


 帷帽いぼうの奥から、困ったような声が聞こえる。


緊箍呪きんこじゅ? なんだそれは」


 李昌が訊ねてきた。しかし、詳しく説明している暇はない。


「後で説明いたします」


 と、ひとまず保留を願った。


「大丈夫ですよぉ。あっちのおっしょう様なんかね、欠伸するよりも簡単に緊箍呪きんこじゅ唱えてたんだから」


 悟浄の女声とも、李昌の声とも違う、どことなくぽってりとした男の声が加わった。悟浄のすぐ後ろから。

 八戒である。

 

「今、こいつ喋らなかったか!?」


 聞き逃さなかった李昌が、黒豚を指さして玄奘に問うた。


 八戒は喋れない事にずっと不満を持っていたし、悟浄の女装にも無理があった。玄奘は、もはや李昌に隠し通すのは限界だと判断する。しかしながら、やはりここで詳細を説明する余裕も無かったので


「それも、後で説明いたします」


 と、これについても保留を願い出た。ところが、八戒が黙っていなかった。


「もう煩いなあ、豚が喋っちゃダメなわけ?」


 よほど鬱憤が溜まっていたのだろう。苛々した口調で、李昌にくってかかる。

 

「豚は喋らんものだろう」


 李昌が負けじと応戦した。


「あのねえ坊や、もうちょっと柔軟に考えようねぇ。頭固いと、早く老けちゃうよ?」


「ぼっ――私はもう二十七だぞ」


 そうか、李昌は自分の一つ下だったか。


 どうでもいい感想が頭をかすめるのは、混乱している証だと、玄奘は自己分析する。

 

 兎にも角にも、早く悟空を取り戻し、ここから立ち去らねばならない。何故なら周りにいる数人が、玄奘らを気にし始めたからだ。


「今から村に戻って、禅師に解決策を聞いている暇はござりんせんのよ、師父。ご決断くだしゃんせ!」


 悟浄も焦っている様子だった。しかし、根っから真面目な彼は、女声と珍妙な女言葉をやめようとしない。


「さあさあ、みなさま、最後の演目ですよ! おひねりの用意はいいですか!?」


 飼い主の少年が、両手を広げて観客の注意を集めた。


 まずい。本当にもう、時間がない。


 玄奘は緊箍呪きんこじゅ以外の手立てを、必死に考える。

 すぐ後ろでは、八戒と李昌が口喧嘩を続けている。それが異様なほど鮮明に聞こえ、玄奘の思考の邪魔をした。


「豚も猿も賢きゃ喋るの! んもう、おっしょうさまぁ。こいつの脳みそ按摩あんましてやりたいよぉ」


 主張が無茶苦茶な上に、どだい無理な望みだ。


「だから、人語を発する声門をしていない豚がどうやって喋れるんだと聞いているんだ!」


 もっともな疑問だ。


「あああ、お猿の芸が終わりますワァ! 早う唱えておくんなんしィ!」


 その通りだ、急がなければならない。


「おっしょうさま!」「玄奘殿!」「師父ぅ!」


 まるで詰問されるが如く同時に呼ばれ、玄奘は三人に振り返る。その時、ばちがいっそう高く鳴り響き、これまでで一番の大拍手が起こった。


「さあ、これにてお開きお開き~っ!」


 猿回しの男が、深々とお辞儀をする。


 男と同じように誇らしげなお辞儀をするゴクウを凝視しながら、玄奘は苦悶の表情を浮かべた。

 やはり、呪文を唱えるしかないのか、と。


 次の瞬間。


 玄奘は、白猿の頭が二股に分かれるのを見た。

 そこから先は、一瞬の出来事だった。金の額飾りをつけ、虎のさるまたを履いた白猿が、曲芸をしていた猿からまるで分裂するように、赤い鉄棒を持って現れ出でた。

 

 赤い鉄棒、すなわち如意棒にょいぼうを持った白猿、悟空は、紅蓮の両目をカッと見開くと、度肝を抜かれている観客達の上を軽々と跳躍する。


「こんド阿呆ども! おっしょさんを困らせてんじゃねーっ!」


 斉天大聖せいてんたいせい孫悟空そんごくうから、渾身の鉄槌が下る。


 大きく弧を描くように振り下ろされた如意棒にょいぼうは、女装をした沙悟浄さごじょうと、その背中に負われている猪八戒ちょはっかいの脳天を、いっぺんにぶちのめした。



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