第38話 追いかける
「悟空待て! 待てと言うに! ぬおおおおお!」
悟浄が両手の指先を真っ直ぐにのばした状態で、両腿を高く上げて疾走する。血走った眼玉をカッと見開いているその形相は、今まさに全力疾走中である事を示していた。
鬼のような形相でがむしゃらに突進して来る藍色の大男を見た往来の人々は、みな悲鳴を上げて逃げるように道をあける。
悟空と思わしき白猿は、追われ始めにちらりと振り向いたのを最後に、ぐんぐん
「何故逃げるー!」
悟浄が怒鳴った。
悟浄の横には、大きな黒豚八戒がどかどかと重い足音を立てながらも、体に似合わぬ俊足でぴたりと併走している。
その後ろを走っているのは、二名の若い男。黒髪を寸分の隙もなく結いあげ、シワ一つない漢服をまとった貴公子、李昌。そして、擦り切れた法衣をまとった僧侶、玄奘である。
どちらも長い衣の裾や袖ををひるがえし、幾度か通行人にぶつかりそうになりながらも、必死に悟浄と八戒を追いかけている。本来の目標である白猿に至ってはもはや、眼中に入れる余裕すらなかった。
「悟浄殿! 怖がらせては余計に逃げるぞ!」
李昌が叫ぶ。
悟浄がちらりと李昌に振り向き、すぐに顔を前に戻す。
途端、罵声のようだった悟浄の呼び声が、野太い笑い声に代わった。
「はっはっはっ、コラ悟空~っ! 追いかけっこはもうお終いだぞぉ~っ!」
「笑えばいいというものではなかろう」
悟浄の
玄奘は苦笑うしかなかった。真面目な悟浄の事である。おそらく、笑顔も無理に作っているに違いない、と。
悟浄の努力の甲斐なく、白猿は止まるどころか更に速度を上げた。
当たり前といえば当たり前だ。先程まで必死の形相で追いかけてきていた相手が急に笑顔になったのだ。不気味さが増して怖さも百倍である。
―― それにしても、おかしい。悟空ならば、我々から逃げたりはしないはずだ。
驚愕の表情で玄奘らを見送る人々の間を駆け抜けながら、玄奘の冷静な部分が分析を始めた。
悟空は、自分がいない間に『おっしょさん』が危険な目に遭う事を最も嫌っている。出会った当初からそうだ。加えて、金角銀角との戦いの後には、玄奘の傍を離れた事を、土下座するほど悔やんでいた。
――だからあの猿は、悟空ではないのだ。少なくとも、今は。
悟浄と八戒は、そのあたりをすっかり忘れ、悟空悟空と追いかけているが。
しかし、それも仕方がないのかもしれない。なにしろ、四日間昼夜問わず探しまわって、やっと見つけたのだから。
悟浄と八戒が角を曲った。玄奘もそれに続いたが、曲ってすぐに足を止めた。
目の前に広がる光景は、
道の両側を、食べ物や日用品などを売る露店がひしめき合うように並んでおり、その間の狭い通路は、人で溢れている。
藍色の男が、咆哮を発しながら人ごみの向こうに消えてゆく。追いかけようにも、悟浄と八戒が開いた道は、既に人で埋まっていた。
「しまった……」
玄奘は呟きながら、脇道は無いかと視線を巡らせる。
追いついた李昌が、玄奘の肩を掴んだ。
「玄奘殿、ちょっとま、待ってくれ!」
李昌は膝に手をつき、苦しげに肩で息をしている。ぴったりと撫でつけられていた髪の何本かが浮いている。わき目もふらず走り続けたせいか、襟元も乱れている。
「大丈夫ですか? 李昌殿」
気遣わしげに訊ねた玄奘の前で、ぜえぜえと呼吸しながらも背筋をのばした李昌は、両手で側頭部の髪をなでつけ、襟を整えた。
「そなた、なぜ息が上がっていないんだ」
同じように全力疾走をしても平然としている玄奘を、李昌は悔しげに見た。
「持久力には自信がありますゆえ」
「おぬしら、いつもこんな事をしているのか?」
「いえまさか――」
否定しかけた玄奘だったが、はた、とこれまでの旅路を思い出し、渋々
「……はい」
と肯定した。
李昌が、はあっ、と大きく息を吐く。漢服の裾についた埃をパンパンと叩いて落としながら
「密行は体力がつくのだな」
と皮肉った。
「動物にはとても敵いませんが」
玄奘は皮肉に応じながら、白猿と仲間達が消えた方を見やる。残念な事に、完全に見失ってしまった。
『妖魔にも敵わない』と心のうちで付け加える。
「安心しろ。あの猿の所在なら、大体分る」
李昌が言った。
予想外の言葉に、玄奘は「え?」と聞き返す。
「同僚が話していたんだ。今、白猿を連れた旅芸人が来ており、人気だそうだ」
いつから来ているのか。
玄奘の質問に李昌は、四日前からだ、と答えた。
悟空が姿を消した日と、合致していた。
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