第15話 黒い犬

「悟空、悟空」

 

 膝立ちの玄奘は、閉ざされた扉を凝視しながら小声で袈裟に呼びかけた。これはもう、変化を解いてよいタイミングであろう。

 しかし、悟空からの返答は無かった。代わりに


「ぐぅ……」


 という寝息が胸元から聞こえた。

 なんとしたことか。悟空は寝ていた。この緊急事態に。

 頼みの綱を失った玄奘は、あまりの絶望感に、思わず首を左右に振った。


「どうなされた玄奘殿。さあ、前へ」


 玄奘の腕を引いた僧が、この期に及んで高座を進めて来た。笑いをかみ殺している。もはや袋のねずみとなった獲物を、精神的にいたぶってやろうという魂胆なのだろうか。

 周囲からも含み笑いや嘲りが起こり、空気がざわつく。


―― これはもう、やれるところまでやるしかない。 


 玄奘は腹を決めて立ち上がった。


 針のむしろに座るような心地でいながらも、顔を上げた玄奘は、目の前に据え置かれた高座の一点を見つめ、ゆっくりと歩みを進めた。いつ誰に飛びかかられるか分らない恐怖を味わいながら必死に平静を装い、目的の場所まで辿りつく。


 柔らかな座布団に胡坐をかき、両の袖をさっと振り広げた玄奘は、ばい(鳴り物を鳴らす棒)を手に取り、大磬だいけい(鉢型の鳴らし物)を鳴らした。続いて木魚もくぎょ用の倍に持ち変え、木魚を打つ。

 仏具の音を聞き、僅かに心が落ち着いた玄奘は、妖魔の集団に、説法を始めた。


「大乗論、阿頼耶識あらやしき。通常は意識されることのない識である。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識まなしき・阿頼耶識の八つの識の最深層に位置する」


 説法を説いていると、次第に頭が冴えて来た。話しながら周囲を観察する余裕が生まれた玄奘は、僧侶に化けた妖魔一人ひとりを確認してゆく。

 悟空が言っていたのだ。黒風怪は、自分と同じように、観世音菩薩の金輪を頭にはめられた、と。

 ならばきっと、この中に金輪をはめた僧侶がいるはずである。


 僧に化けた妖怪達は、くすくすと妖しく笑いながら玄奘の説法を聞いている。玄奘という獲物を前にして、食欲にまみれた視線ばかりである。しかしその中に、食欲とは少し異なった目つきをした僧を一人、玄奘は発見した。


―― いた!


 柱の横に金の輪を額につけた青年僧。玄奘を――否。玄奘が纏っている袈裟を、物欲しそうに見つめている。

 黒風怪に間違いないと判断した玄奘は、説法を止めると素早く袈裟を脱ぎ、高く掲げた。


「黒風怪。この袈裟を破られたく無くば、仲間を退かせよ!」


 自分を狙う捕食者ばかりの中で、玄奘は一か八かの取引を持ちかけた。


 殺気だった僧侶たちが一斉に立ち上がった中、金輪をはめた僧が玄奘に手を伸ばし、「待ってくれ!」と叫んだ。


 袈裟が震え、「あれ?」ととぼけた声がする。孫悟空、ようやくのお目覚めである。


「おはようございます悟空」


「あい、おはよう」


 返って来た挨拶は、寝ぼけ声だった。

 しかし玄奘の胸には、希望が湧いていた。悟空が起きた。これほど嬉しい好転はない、と。


「さて。悟空なら、この状況をどうしますか」


 玄奘は頭上の袈裟に訊ねた。高座の上で掲げられているのだから、この切迫した様子を見渡せるはずである。


 僧達は徐々に妖怪の本性を現し始めた。肌の色を変える者、角を生やす者、巨大化する者、獣の頭に変わる者、変化は様々である。


「こいつぁーまた、えらい事になってますね。おっしょさん」


「ええ。えらい事です」


「よく頑張ったじゃありませんか」


「どうも」


 呑気な会話をしている間にも、本性を現した妖怪達が迫ってきている。玄奘は高座の上で立ち上がり、横へ飛び下りる体勢を整えた。

 壁伝いの両側に、人一人通れる程度の通用口が見えたのである。上手くすれば、そこから出られるかもしれないと考えた。


「よし、おっしょさん。オイラを投げてくんな」


 歯切れよく、悟空が言った。

 玄奘は耳を疑った。


「正気ですか?」


「正気も将棋もねえっての。いいですか、三で投げるんですよ。一、二の、三!」


 言われた通り、玄奘は『三』で妖魔達の頭上に袈裟を放り投げた。

 途端、袈裟に尻尾がにょきりと生え、続いて白い毛が袈裟の表面に現れる。


「ひゃっはー!」


 空中で猿の姿に戻った悟空は、雄たけびを上げると如意棒を振り回し、妖魔達の群れに突っ込んだ。


 妖魔が数人、玄奘に飛びかかってきた。玄奘は横へ宙返って高座から飛び降り、妖魔の手から逃れる。


「おっしょさんは、とりあえず外へ!」


 如意棒で妖魔達をバッタバッタと倒してゆく悟空に指示され、頷いた玄奘は通用口へと走った。が、角を生やした妖魔二人に道を塞がれる。


「おっとぉ。肉がどこへ行くってんだ?」


 やはり、妖魔にとって自分はただの肉の塊でしかないらしい。家畜ですらもう少しマシな呼ばれ方をするのではないかと思いながら、玄奘は素早く視線を巡らせ、逃げ道を探す。

 その時、妖魔二人を、後ろから炎が襲った。

 

「三蔵! こっち!」


 考えるより先に、三日ぶりに聞く声に体が反応した。

 玄奘は炎と妖魔二人の隙間をかいくぐり、声のした方へと走る。通用口を抜けて廊下に出ると、目の前に一匹の黒い中型犬がいた。首に牙のようなものを一つぶら下げている。


「沙羅!」


 玄奘は何故か、黒犬を沙羅だと信じて疑わなかった。

 沙羅の声がした方向に犬がいたからだとか、犬の毛色と沙羅の服が同じ黒であるとか、沙羅が犬の妖魔であるからだとか、理由は並べれば色々あったが、その時はただの直感だった。

 黒犬が玄奘を導くように、廊下の奥へとダッと走り出す。しかし、走りだしてすぐに柱に頭をぶつけて「ギャン」と悲鳴を上げて転がった。


「大丈夫ですか!?」


「ああもうイライラするぅっ」


 玄奘が駆け寄ると、黒犬は沙羅の声で口をきいた。

 ぶつけた額に前脚をあてて悶絶している姿などは、人そっくりである。


 柔らかな毛に覆われた額に触れると、骨ではない固い物が指先に触れた。コブだった。


「悪いけど、抱えて走ってくれる? 逃げる方向は教えるから」


 悔しげな唸り声を上げながら、沙羅が頼んできた。妙な事を言うなと思ったが、黒いガラス玉のような両目を見た時、玄奘は理由を知った。


「まさか、目が見えないんですか?」


 沙羅の両目は玄奘をとらえているようで、焦点が合っていなかった。

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