大通山

第5話 唐僧、玄奘 ~ 大通山にて

 ここは、大通山だいつうざんを抜ける山道。緑が深く、松をはじめとした針葉樹やブナなどの落葉樹の林が広がっている。

 ここで、玄奘は立ち往生していた。奇妙な輩に、東西南北から囲まれてしまったからである。


 二十代の終わりにさしかかるその精悍な面ざしを緊張させた彼は、錫杖を構え、油断なく四方に視線を巡らせる。背中に守っている二人の少年僧を、この危機的状況から逃がさねばならないと考えていたのだ。


 いきさつは、こうである。

 まず、玄奘達の行く手を塞いだのは盗賊だった。人数は五名。いかにもといわんばかりの、無頼漢ばかりである。彼らは、林から躍り出てきたかと思うと、玄奘の正面を塞ぎ、刀や槍を手に『荷物を捨てろ』と恫喝して来た。

 涼州りょうしゅうから道案内役として遣わされた、慧琳えりん道整どうせい二人の少年僧を行李の後ろに庇った玄奘は、錫杖を構え応戦する体勢をとった。そこで、後ろから別の声がかかったのだ。


『見つけたぞ三蔵法師!』


 振り向いた玄奘の前で仁王立ちしていたのは、動物の頭を持った男が三人。六尺(百八十㎝)近い玄奘を越える巨体ばかりが、それぞれ一太刀ずつ湾刀を持っていた。ちなみに三人の頭は、左から熊、虎、牛である。


 異形の人を前にして、少年僧二人と盗賊の一人から甲高い悲鳴が上がった。


 と、今度は林から若い女が一人、飛び出してきた。美しい娘だった。しなやかな痩身に黒い胡服をまとい、腰まで届く艶やかな黒髪の一部を両側頭部で丸めている。飾り気はないが、黒目がちの大きな瞳と鮮やかな唇を持った面ざしは蓮の花のようで、その愛らしさを色白の肌が一層引き立てていた。

 玄奘はその娘の登場に一瞬恐怖を忘れたが、その娘が腰から短刀を抜いて両手に構えた事。続けて異形の男達が『沙羅、抜け駆けするなよ!』とその娘を牽制した事で、恐怖が戻って来た上に落胆まで禁じえなかった。


『玄奘さま、こいつらは何者です』


『ご存知なのですか?』


 順番にしがみついてきた慧琳と道整がに、玄奘は『私にも分らない』と答えた。

 玄奘の肌は泡立っていた。命の危険をおぼえたからではない。獣人三人と美しい娘から、盗賊達とは異なった妙な『気』を感じ取っていたからである。それは人のものとも動物のものとも判断がつかない。強いて言うならば幼い頃に見た、暗闇の中で蠢いていた何かから感じたものに近かった。


 清涼の気候になりはしたが、残暑は厳しく、日中の陽射しは強い。そこに極度の緊張が加わり、玄奘の額から無精髭が残る顎に向かって、嫌な汗がつるりと流れた。


『とにかく、ここは私が何とかします。お前達は逃げなさい』


 玄奘は、唯一退路が残された南へ少年僧二人を走らせようとした。しかしここでまた、新たな邪魔が入ったのだ。


『おっしょさーん!』


 彼らは頭上からやってきた。


(猿?)


 空から降って来た者の姿に、玄奘は一瞬、我が目を疑った。その毛むくじゃらの生き物は、四尺(百二十cm)足らずの身体に、虎の皮で作ったさるまたを履き、擦り切れた十徳を纏った白猿だったのだ。しかも頭には金色の額飾りをつけ、手には赤い棒という奇妙ないでたちだ。


『おっしょうさまー!』


(……と、ブタ人間?)


 猿に続いて、黒豚の頭を持ち、吐蕃チベット風の衣裳に身を包んだ出腹の男も降って来た。彼は、まぐわを握っていた。


師父しふー!』


(青黒い人間と、馬も!)


 次に、青黒い肌に赤い髭の大柄の僧が。彼は棒の先に、三日月形の刃がついた武器を握っていた。

 最後に、立派な白馬が。


『危ない!』


 とんでもなく高い空の上から落ちてきた彼らが無事に着地できるとは思わなかった玄奘は、思わず声を上げた。

 しかし驚いた事に、三人はずしんと重い足音を響かせ、両足でしっかりと着地したのである。白馬は残念ながら着地に失敗し、林に落ちて痛そうな嘶きを上げたものの、どっこい生きていた。


 こうして、空からの乱入者によって唯一残っていた南の退路も塞がれてしまったのだ。

 彼らが丁度目の前に落下してきたとあって、玄奘は再び、腰を抜かさんばかりの勢いで後退してきた少年僧二人にがっちりしがみつかれる羽目になる。


『な、何だお前ら!』


 西。盗賊がへっぴり腰で、獣人や空からの乱入者に刃を向けた。


『あーっ! てめえ、孫悟空だな!』


 東。獣人が猿に向かって牙をむいた。


『おめぇら、死にたくなけりゃあとっとと失せやがれ!』


 南。猿がさっと鉄棒を構えた。


 北。娘が片足を引いて重心を下げ、臨戦態勢をとった。


 こうして、玄奘を挟んで、四つ巴の図が出来上がったのである。

 

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