第6話 玄奘、さらわれる

 最初に動いたのは、獣人だった。


「悟空覚悟! きええええっ!」


 いかつい体に似合わない高い奇声を発した熊男が、猿に向かって飛びかかる。牛と虎も同じように刀を振りかぶって突進してきた。


「行くぞ! 八戒、悟浄!」


 鉄棒をぶん回した猿が、黒豚と青黒い僧に威勢よく声をかけた。二人は「おう!」と雄々しく応じると、各々武器を手に、前へ躍り出た。獣人と奇人達の打ち合いが始まる。


 玄奘は初め、獣人らの頭を被り物と疑っていた。しかし、彼らの眼球の動き、豊かな表情そして牙が並んだ口腔を見れば、まがいものでない事は容易に分かった。その上、獣人も奇人も実に俊敏である。彼らは明らかに、戦い慣れていたのだ。


 巻き込まれてはならない。今の内に逃げなければ。


「慧琳、道整! こっちへ」


 玄奘は構えていた錫杖を下ろすと二人を引っ張り、盗賊らが立ちふさがっている西側へと走る。


「うおっ! こっち来んな!」


 盗賊達は獣人らと同じく玄奘を襲おうとしていたにも関わらず、刀を向けて追い返そうとして来た。へっぴり腰の盗賊達は、すっかり怯えている様子である。

 その切っ先を、ただ脅しているだけだと判断した玄奘は躊躇い無く、慧琳と道整を盗賊達の中に押し込んだ。玄奘の目論見通り、盗賊達は戸惑いながらも、自分達に向かって突っ込んできた少年僧二人を受け止める。


「来んなって言っただろうが!」


「怖いなら逃げたらどうです」


 盗賊達を背に錫杖を構えなおした玄奘は、自分に刀を突きつけてきた盗賊の男にそう言った。


 自尊心プライドを少なからず刺激された盗賊の男は、真っ赤になって唾を飛ばす。


「馬鹿言え! 手ぶらで逃げれっか!」


「戦利品よりも命を大事にしてください」


 玄奘が言い返したその時、八戒によって弾かれた虎男の刀が道整に向かって飛んできた。玄奘は思わず、道整の前に身を乗り出して盾となる。しかしその刃は、玄奘には届かなかった。玄奘の前に飛び込んできた黒い影によって弾き返されたのだ。鋭い金属音が響いた直後、軌道を変えた刃が、近くの松の枝に刺さる。

 刀を弾き返した黒い影は、沙羅と呼ばれていた娘だった。

 重量感のある太刀を短刀一本で跳ね返した娘の剛力ぶりに、玄奘は目を瞬く。


「あなたは、一体……」


 玄奘が問いかけを終えるより先に、沙羅が動いた。最も近くに居た慧琳の腕を掴んだ沙羅は、彼を素早く引き寄せて拘束し、緊張で筋張った細い喉元に刀の切っ先を突きつけたのだ。


「小坊主の命が惜しければ、一緒においで。三蔵」


 そうして、玄奘に向かって妖しげな微笑みを浮かべ、鈴を転がすような可愛らしい声で脅してきた。


 青ざめた慧琳は、声が出せない様子であった。涙を流しながら、ガタガタと震えている。道整は、慧琳と玄奘を交互に見ながらおろおろとしている。


「ははは早く行け!」


 盗賊の一人が、沙羅に向かって玄奘の背中を押した。


「従えば、慧琳を開放して下さるんですね?」


 玄奘が確認すると、沙羅は艶やかに微笑んで頷いた。


「どこへ行けば?」


「その前に、杖と荷物を下ろしなさい」


 玄奘は言われるままに、錫杖を道整に渡し、行李を地面に下ろした。


「いいわ」


 ぽいと投げるように慧琳を解放した沙羅は、短刀を腰の鞘に仕舞うと、玄奘に歩み寄る。ほんの少し手を伸ばせば届くくらいの距離で立ち止まり上目使いに玄奘を見ると、両の口角をきゅっと上げ、可愛らしくも、妖艶な微笑みを作った。


「では失礼」


 歌うように言うと、玄奘に抱きつく。

 玄奘は驚いているうちに、華奢な肩にひょいと担ぎあげられてしまった。

 玄奘は細身ではあるが、長身の男である。沙羅はそれを、藁束のように軽々と持ち上げたのだ。沙羅の馬鹿力に度肝を抜かれたのは、担がれた玄奘本人だけではなく、それを目撃した盗賊も同じなようであった。


「嘘だろぉ!」


 盗賊の一人が絶叫したのだ。

 その絶叫を聞きつけたのか、熊頭の男が目をひんむいて「あーっ!」と叫んだ。熊男と闘っていた猿も振り返り、「ぎゃー! おっしょさーん!」と悲鳴を上げた。


「沙羅、貴様! 抜け駆けするなと言っただろうがー!」


「こん嘘つきがー!」


 牛と虎の頭をした男二人も、口々に沙羅をなじった。

 やはり獣人三人と沙羅は、仲間だったのだと玄奘は確信した。協力関係は破綻に向かっているようではあるが。加えて、沙羅が獣人らを裏切るのは自分を助ける為ではない事も、理解していた。沙羅が何をするもりなのかはまだ予測できないが、自分にとって都合の悪い事であるのは確かである、と。

 しかし今は、慧琳と道整を無事に涼州へ帰す為にも、従わねばならない。


 沙羅が「あはは」と爽快な笑い声を上げた。


「早い者勝ちよ! ばーか!」


 続けて、目の前にいる全ての者を馬鹿にするように、あっかんべと小さな舌を出すと、深く息を吸い、空気を飲みこむ。


 何をしているのだろうと玄奘が眉をひそめた次の瞬間、沙羅のその小さな口から、炎が吹き出た。大道芸人が市場バザールでやっているような、可愛らしいものではない。そこが乾燥した草原であれば、一気に三十三尺(十m)は灰にしてしまえるほどの大火である。


ー!」


「あちーっ!」


「焼き豚になっちゃうよーっ!」


「毛が焼ける!」


 炎にのまれた獣人奇人が、ばたばたと暴れながら、悲鳴を上げる。

 惨状を前にした慧琳と道整が、揃って腰を抜かした。それを見た玄奘は、何とかして拘束から逃れようと身をよじる。慧琳と道整をこんな所で死なせてしまっては、自分を信じてこの二人を預けてくれた慧威法師えいほうしに申し訳が立たない、と。しかし、沙羅の腕は玄奘の背中や腰をがっちり固定していて放さない。


「立ちなさい二人とも! 早く逃げなさい!」


 玄奘は、一刻も早くこの場を去るよう少年僧二人に叫ぶ。

 と、突然、身体がふわりと浮いた気がした。沙羅がしゃがんだのだと気付いた時、目線は一気に上がり、地面は遠のいていた。沙羅が玄奘を抱えたまま、跳び上がったのである。それも、林よりも高く。


「三蔵の肉、もーらいーっ」


 絶句している玄奘の耳に、ご機嫌に笑う沙羅の声が聞こえた。


「玄奘様ー!」


「おっしょさーん! 必ず助けに行きますからねー! 食べられちゃ駄目ですよー!」


 道整や猿のものらしき呼び声は届いたものの、既にその姿は木々に埋もれ、玄奘からは確認できない。

 どこに連れて行かれるか見当もつかないまま、玄奘は眼下に目を凝らす。僅かにそれだと判断できたのは、林の向こうで赤く燃えている炎の先っぽだけだった。


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