第7話 玄奘の味

 沙羅はその後、幾度か地を蹴って跳躍を繰り返した。終着点は、大通山山頂に陣取る大岩の頂である。


 玄奘を抱えた沙羅は、横に薙ぎ払われたような岩の平面に、ふわりと着地した。その瞬間、玄奘の胴を支えていた腕の力が微かに緩む。

 玄奘はその隙を逃さなかった。沙羅の腰にある双刀に手をのばし一本奪った玄奘は、刀の持ち主の細腰に両腕を巻きつけると、下肢を振り上げた。そのままぐるんと横向きに回転して沙羅を抱え込むと、彼女の白い首筋に、奪った刃をつきつける。


「こ、答え、て下さい」


 形勢逆転は叶ったものの、緊張のせいで声が若干震えてしまった。

 玄奘は、早鐘を打つ己の心臓を落ち着かせようと一度大きく呼吸をしてから、再び話しはじめる。


「答えて下さい。あなたの目的は、私の強制送還ですか? 上官は誰です。どれくらいの人員が、動いているのですか」


 沙羅を長安からの使者だと考えていた玄奘は、この誘拐を好機ととらえ、役人の動向を聞きだそうと試みた。

 実のところ玄奘は涼州を出てから昨日まで、人目につかないよう夜間の行脚を余儀なくされていたのである。理由は二つ。西方への旅行の許可を願った再三の願書が却下された末に、密出国という手段を取った自分を、太宗皇帝が見逃すはずは無いという不安が常に付きまとっている事。そして、先の涼州で詔勅が無い事を知られてしまい人相手配書を作られた失態、である。

 人通りが少ない山道に入った今日、ようやく日中に動けるようになったのだ。故に、役人の動きを知ることで無駄な憂慮を軽減できれば、という思いは大きかった。


 脅迫を受けた沙羅は目を丸くしていたが、怖がっている様子は微塵も見られなかった。


「こっちの三蔵は逞しいわねぇ」


 そのように玄奘の健闘をのんびりと称賛してから、「あたしの目的は、あんたの肉を食べることよ」と告げる。


「え? ぐうっ!」


 あまりに予想外だった返答に驚いた玄奘は、腕の力を緩めてしまう。しまった、と思った時には、沙羅に短刀を奪い返され、岩肌に背中を押し付けられていた。背中をしたたかに打ちつけた痛みと、胸郭を圧迫される苦しさに、潰れたような声が出た。

 玄奘は身を起こそうとしたが、玄奘の胸郭を押さえている沙羅の左腕は信じられないほど重く、びくともしない。


(この娘のやることなす事、人間業とは思えない)


 息苦しさに耐えながら、生物としての違いを疑う相手を見上げる。するとまるで疑問に応えるかのように、妖しく微笑んだ沙羅の口元から白く尖った歯が二本、顔を出した。犬歯だ。


「ああ、おいしそう」


 花弁の端が重なっているような口角から、透明な液体がじゅるりと垂れかかる。沙羅はそれを、舌ですくい上げるようにぬぐった。


「無精髭はいただけないけど、面構えはこっちの方が好きよ。頭は最後まで取っといてあげるわね」


 妖しい手つきで玄奘の顎を撫でた沙羅の瞳が、しっとりとした輝きを放つ。その輝きは人間には珍しい、黒曜石の如き漆黒だった。

 瞳に魅入ったのは一瞬だった。しかしその一瞬の油断で玄奘は、牙を突き立てる隙を沙羅に与えてしまったのである。


 素早い動きで玄奘の左前腕部を両手で掴んだ沙羅は、まるで肉の塊を相手にしているかのように躊躇なく、前腕の最も肉厚な部分にかぶりついた。

 焼けつく様な痛みに顔をしかめた玄奘の耳に聞こえたのは、腕に噛みついている沙羅の口元から発せられた、「じゅっ」という血をすする音。ややあって、先程まで刃をつきつけていた白い喉元が、何かを飲み込んだように、こくりと上下する。


 玄奘は総毛立った。目の前の娘が、本気で人を食おうとしていると悟ったからだ。押し退けて早く逃げなければ、と沙羅の細い肩に手をかける。

 つ、と沙羅が玄奘の腕から牙を抜いた。苦しげな表情で玄奘に覆いかぶさる。そして――


「げっほぉ!」


 盛大に血を吐いた。


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