弱水にて

第31話 弱水そして烏巣禅師

「しかし、妙案でございましたな師父。金角と銀角に、沙羅の母御ははごと妹の身の安全を約束させるとは」


「本当だねぇ。太上老君たいじょうろうくんが味方についてくれれば、牛魔王ぎゅうまおうだってそう簡単には手出しできないもんねぇ」


「いえ。ただの思いつきだったのですが。予想以上に上手くいきそうで何よりです」


 後方の悟浄と八戒に玉龍の上から振り返った玄奘は、そう答えた後で「いたた……」と顔をしかめた。


 玉龍は、まりも落ちないほど注意深くぽっくりぽっくり歩いてくれているのだが、酸の酒で全身ただれてしまっている玄奘にとっては、拷問に等しい移動だった。

 とはいえ、尻と両腿。くらに当たっているこの二カ所の痛みにだけ耐えればいいのだから、自分の脚で歩くよりは、幾分マシなのである。


「大丈夫ですか? おっしょさん。やっぱりオイラが負ぶってさしあげましょうか?」


 玉龍の手綱を取って先頭を歩く悟空が、気づかわしげに玄奘を見上げた。


 玄奘は苦笑うと、「ありがとうございます。大丈夫ですよ」と猿の負んぶを丁寧に辞退した。

 悟空が怪力なのは承知しているが、この小さな背中に体を預けなければならないとなると、馬に乗るよりも辛い事になりそうなのは、想像にやすい。


「それにしても、沙羅ちゃんはちゃんと薬見つけてくるかなあ」


 行李こうりを担ぐ八戒が鼻をブイブイいわせながら、一足先に次の州を目指した仲間の心配をする。


「薬は見つけるであろう。相当意気込んでおったからなぁ。ぜにを忘れて行ってしまうくらいに……」


 火傷や皮膚炎に効く薬を必ず手に入れて来ると、風のように走って行った沙羅の後ろ姿を思い出した悟浄が、明後日の方を見ながら言葉の最後で嘆息した。


 金が無いならないでやりようはある。しかし、「ちょっと待て。おぜぜを持って行け!」と止めようとした仲間(悟浄)の声も耳に入らないほど一心不乱なのは如何なものかと、悟浄は心配しているようだった。


 次の町は粛州しゅくしゅうだ。現在地からは十二里 (約五十㎞)の距離である。

 

 八戒が鼻を、ぶひいーと寂しげに鳴らした。


「早く帰ってこないかなぁ。女の匂いが無いと俺、余計に腹が減っちゃうよぉ」


 言いながら、スイカが入っているような丸い腹をくるくるとさする。


「お前はいっつも腹鳴らしてるだろうが!」


 すかさず悟空がツッコミを入れた。


 玄奘は、三人には気取られぬよう控えめに笑った。自分が玉龍に乗った事で、この三人の立ち位置がはっきりと見えたのが面白かったのである。

 悟空が旅を先導し、荷物を担いだ八戒が玉龍の横を歩きながら悟空と軽口を言い合う。悟浄はひたすら最後尾を守り、真面目に務めに励む。おそらく、あちらの世界でも玉龍に乗った三蔵法師を真ん中にして、こんな風に賑やかな旅路を歩んでいたのであろう。


「お、ここはやはり流砂河りゅうさがであったか」


 ふと、沙悟浄が顔を上げた。間もなく、目の前に豊かな流れの川が現れる。

 

 それは、甘州で『弱水』と呼ばれていた内陸河川だった。甘州や粛州といったオアシス都市にとっては、生命線といえる川である。


 エジナ河や黒河こくがという別称もあると聞いてはいたが、『流砂河』の名は初耳だった玄奘は「りゅうさが?」と聞き返す。


「さようです」


 沙悟浄は目を細めながら答えた。


「師父、この川はワシの故郷でございます。世界は違えど、風景はほぼ同じ。なつかしゅうございます」


 玄奘は道中、三人から、三蔵法師の弟子になった経緯いきさつを聞いていた。


 沙悟浄の場合、天界で罰を与えられた際に『流砂河』という大河に落とされたとのことだが、それがここ、弱水らしい。

 沙悟浄は三蔵の弟子になるまで、川底に住み旅人を襲って喰らう生活を送っていたと言っていたが、目の前を悠々ゆうゆうと流れる大河は美しく澄んでいて、妖魔がひそむような場所にはとても思えなかった。

 

「美しい河ですね。悟浄の他にも、この河に住む妖魔はいたんですか?」


 玄奘からの問いに、沙悟浄は『流砂河』に住んでいたのは自分一人だったと答える。そして、この河は自分の家同然だから案内は任せてくれ、と列の先頭へといさんで移動した。

 

 大河を前に降妖宝杖こんようほうじょうを水平にのばした沙悟浄は、その三日月形の刃がついている杖先を、川下から川上へとゆっくり滑らせながら説明する。


「下流は川幅広く、渡るのは困難ですが、上流に行けばいくほど浅くなります。となれば、少々遠回りにはなりますが上流に向かって歩むのが賢明かと。さすれば村もあるはずです。師父はお怪我もなさっておりますし、今宵こよいはそこで休むのは如何でしょう」


 普段は控えめな沙悟浄が、珍しく饒舌じょうぜつだ。


 村と聞いて、八戒が腹をぐううと鳴らした。おそらく、村でありつける食事を想像しているのだろう。その証拠に、よだれをだらだらと垂らしている。


 玄奘は、沙悟浄の勧めに従いたい気持ちはあったものの、宿を決めるにはまだ少し早い時間帯の上に、一人で先を行った沙羅の事も気がかりだった。


「私は大丈夫です。早く沙羅に合流しましょう。女性の一人旅は危険ですから」


 途端、悟空が面白くないとばかりに鼻根に皺を寄せた。


「だから、あのはねっかえりの事はお気づかい無用なんですってば。おっしょさんね、何度も言いますがあいつは妖魔なんですよ。瓢箪ひょうたんの中で頭から酒かぶっても『まっずい』だの『くっさい』だの、ぎゃあぎゃあ文句言ってただけじゃありませんか。人間なんか比べものになんねーほど皮膚もツラの皮も分厚ぶあついんですって!」


 面の皮の厚さは人も妖魔も関係ない。これはただの憎まれ口だった。

 どうも悟空は、沙羅に対して妙な敵対心があるようだ。


 もしや同族嫌悪だろうか。


 悟空と沙羅がどことなく似ていると感じている玄奘は、疑わずにはいられなかった。


「大体、あいつは犬じゃありませんか。鼻に関してだけ言えば、オイラ達よりよっぽどいいもん持ってんです。おっしょさんがどこにいたって、嗅ぎつけて戻ってきますよ。おっしょさんが心配する必要なんか、これっっっっぽっちもありやせんのです!」


 悟空が針に糸を通すような顔で、長い人差し指と親指をギリギリまで近づけて玄奘にアピールする。

 悟空は本当に頭も口もよく回ると、玄奘は感心した。


 確かに沙羅は、刀を使えるし火も吹くし身軽だ。鼻も利く。

 憎まれ口を差し引けば、悟空の言っている事も間違いではないと判断した玄奘は、悟浄の勧めに応じる事にした。

 

 それに、短気な悟空の神経をこれ以上刺激するのもよろしくない。


「では悟浄。案内をお願いします」


「おう、きっちりやれよ」

「承知!」 

 

 玄奘が言うなり、兄弟子あにでしの悟空が横柄な口調で、玉龍の手綱を弟弟子おとうとでしの悟浄に渡した。

 悟浄は深々と頭を下げながら、手綱を押し頂く。


 はたから見れば、悟空の飼い主のようにも見える悟浄である。しかし、やはりこういう所では兄弟の力関係がはっきり出るようだと、玄奘は二人のやり取りを無言で眺めながら思った。



 悟空と悟浄が前と後ろを入れ替わり、川岸を上流に向かって進むと、集落が見えてきた。


「おお、あったあった。あちらでございます、師父」

 

 悟浄が声を弾ませ、歩を速めた。

 しかし村の入り口まで来た所で、悟空が「ちょっと待て」と行く手を止める。


「なんか、変じゃねえか?」


 先頭に出てきた悟空は、警戒するように鼻をフンフンとならし、村から漂ってくる空気を嗅ぐ。


 よく見ると、村の入り口にあるヒノキの大木に、人々が群がって平伏していた。

 木の根元には、色とりどりの花が咲き乱れ、その上では鹿や猿などの動物がたわむれている。枝の周りには鶴が舞い遊んでいる。


「なんじゃい、あの極小桃源郷みたい妙ちくりんな大木は」


 木の周りだけ浮世離れしている異様な光景に、悟空が茫然と言った。


 確かに変である。

 玄奘は、その村に入るべきか、元来た道を戻るべきか迷った。

 その時、八戒が「あぁ、あんれまあ!」と感嘆の声を上げて指差す。


「あれ、烏巣禅師うそうぜんじでないのぉ」


 八戒が指し示した先には、ヒノキの根元で座禅ざぜんをくんでいる、黒衣の僧の姿があった。

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