第30話 彼岸の母

 ここは、彼岸ひがんだと悟った。

 これほどに澄んだ青空は見た事がない。影一つ存在しない、光に満ち溢れた世界がどこまでも広がっている。

 目の前には浅い小川がさらさらと流れ、対岸には色とりどりの花が咲き乱れている。

 そこに、藤色の漢服をまとった小柄な女人が一人、機織りをしている姿があった。

 庵も何もない野原に、機織り機と女だけがぽつんと存在している。


 女は最後、幾度か横糸を通してそれをおさで叩くと、出来上がった布地を機織り機から外して胸に抱いた。模様の無い、真っ白な布だった。


 女は服の裾が濡れるのも構わず、白い布を抱いて対岸の玄奘に向かって小川を渡ってくる。

 玄奘は、その女を知っていた。


「母上」


 十歳の頃に亡くなった、母である。


 玄奘は躊躇わず、己も小川に足を踏み入れ、母を迎えに行った。


 対面した母は、最も溌剌としていた頃の美しい姿をしていた。

 少女のようにあどけない面立ちに優しげな微笑みをたたえた母は、玄奘を見上げると胸に抱いていた織り上がったばかりの白布をさっと広げた。


 その柔らかそうな綿織物は、周囲の色をうっすらと透かして朝靄あさもやのような光で満たされている。


「やっと出来上がりました」


 母は歌うように言うと、腕いっぱいに広げた白い綿布を玄奘の両肩にそっとあてる。

 玄奘の胸元から足首までをすっぽり覆った布は、足元を流れる小川のように清涼で、玄奘の体を優しく冷やした。


―― 気持ちが良い。体全体が、洗われているようだ。


 玄奘は両目を閉じて、心地よい清涼感を味わう。――が、両頬にふっくらと柔らかなものが添えられた感覚を覚え、目を開いた。


 玄奘の頬を掌で包んだ母が、目じりを下げていた。喜んでいるようにも、悲しんでいるようにも見える。

 

「可愛い子よ。母は夢に見たのです。真っ白な法衣を着たお前が、母の元から旅立つ夢を」


 それは、玄奘が子供の頃に繰り返し母から聞かされた夢の話だった。玄奘が生まれた日、母は成人した玄奘が白い法衣を着て白馬に乗り、西へ旅立つ夢を見たのだという。

『どこへ行くの』と聞けば、『法を求め天竺てんじくへ』と答えたのだ、と。

 しかしその夢の全ては、成就されなかった。

 天竺への旅が始まる前に、母が死んだからである。


「先に旅立たれたのは、母上ではありませんか」


 玄奘が返すと、母は微笑みを深くした。


「私がいては、お前はきっと旅立てませんでしたよ」


 母は父が病で亡くなってから急に体調を崩し、父を追うように亡くなった。上の兄三人は、とうに家を出ており、姉は嫁入りしていた。

 もし、あのまま母が患いながらでも生き長らえていたら、玄奘は家に留まり、僧にはならなかっただろう。

 起こるべく時期に起こった別れなのだと、母は言った。


「西へ西へ。進み続けなさい。そうしている間は、お前は仏の加護にあずかれるでしょう」


 母の姿がにじみはじめた。

 もしや自分は泣いているのかと目頭を押さえたが、涙には触れなかった。

 覚醒が近いのだと、玄奘は悟った。

 自分が彼岸へ到達するのは、まだ先になりそうである。


「母上、さらば……」


 呟きながら、玄奘は目覚めた。

 まぶたを上げると、目の前に、女の泣き顔があった。沙羅だった。


 意識がはっきりしてくると、流れのある水中に寝かされているのだと分った。

 全身を包み込む緩やかな水流は、冷たい手で玄奘の体を優しく撫でてくれているようである。

 背中にはゴツゴとした石の感触。水と草の匂い。ここは、川の浅瀬である。


 瓢箪ひょうたんから出られた事。そして、川の水で酸の酒を洗い流してくれているのだと気付くまで、さほど時間は要さなかった。


 頭部は、耳から後頭部までとっぷりと水に浸かっており、顔を動かして鼻や口に水が入らないよう、顎が固定されていた。

 

 玄奘の下顎したあごを両手で包んでいる沙羅の顔が、ぐしゅぐしゅと崩れはじめる。


「三蔵ごめんなさい。あたし、あんたの体がこんなにただれてるなんて思わなかった」


 玄奘の頬や目尻に、ぼたぼたと涙が落ちる。

 上唇を濡らした一滴が、するりと口腔内に滑り落ちた。

 しょっぱい。

 妖魔の涙も人間の涙と同じ味がするのだと知った玄奘は、思わず微笑んだ。

 

 その微笑みを『許し』と受け取ったのであろう。目を見開いた沙羅は、顔の中心にぎゅっと皺を寄せると


「ごめんよぉ~!」


 と大声で泣いた。

 

 川岸が賑やかだったので顔を向けると、悟空と八戒が『お仕置き』と称して、金角銀角を如意棒とまぐわで、どつきまわしている様子が確認できた。

 土下座をしている金角銀角は、叩かれながら「すんませんでした」を連発している。


 金角の腰には、割れた瓢箪が吊り下がっていた。札は貼られたままである。おおかた、悟空が力任せに壊したのだろうと想像できた。


 玄奘は全身の焼けつくような痛みに耐えながら、上体を起こした。


「悟空、八戒。反省している者に仕置きは必要ありません」


 玄奘が声をかけると、如意棒とまぐわがぴたりと止まる。

 如意棒を放り投げた悟空が、玄奘に駆け寄った。


「すみませんおっしょさん。オイラが傍を離れたりしなきゃ、こんな酷ぇお体にはならなかったんです!」


 惚れ惚れするような土下座で、川の中に頭を突っ込む。

 悟空が窒息する前に頭を上げさせた玄奘は、続いて金角銀角に顔を向けた。


 すっかり大人しくなった二人は、覇気が無くなった分、一回り小さくなって見える。

 しかも、二人とも顔面が腫れ上がっていた。まるで、蜂の大群に刺されたようだ。しかし、目の周りには青痣ができているので、針ではなくゲンコツでやられたのだと分かる。

 犯人は悟空か八戒だろう。お仕置きを止めるのが、少々遅かったようだ。


「ふまんかったさんろう。ひたひきにひてひまって(すまんかった三蔵。下敷にしてしまって)」


「おふうほとふはり、詫びはふるつほりだ。何れも言ってくれい(弟と二人、詫びはするつもりだ。何でも言ってくれい)」


 歯が折れて唇も腫れているせいか、二人の滑舌は最悪だった。しかし、ギリギリ通じる。


 玄奘は、こちらに体を向けて居住まいを正した二人に「ありがとうございます」と頷いた。そして、一つ頼みごとをする。


「道教の神の使いであるお二人に、お願いがあります」


 玄奘には、実現させたい事があった。

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