第29話 外と中のすったもんだ

 金角の大きな尻に沙羅が潰され、荷重に耐えられなくなった刀の刃が折れ、三人揃って酒溜まりに真っ逆さま。


 しかしこの展開は、玄奘が何もしなければの話である。


 玄奘は動いた。とっさに腹筋を使って両脚を振り上げ、沙羅を壁際に逃がしたのである。

 続いて、自分の足元を通過する寸前の金角に左手を伸ばし、その襟を掴む事に成功した。

 巨体の牽引力に腕が引っ張られ、肩が抜けそうになったが。


「ぐうっ」


 玄奘は苦悶の声を上げはしたものの、持ち前の根性で持ちこたえた。幸い、沙羅の短刀も男二人分の重量に刀身を折らず耐えてくれた。


 これで、酒溜まりへの転落は免れた。

 ――かのように思われたがしかし、酒溜まりの方が玄奘らを迎えに来た。瓢箪が大きく揺れたのである。


「うおっとっとっと!」


 外から、悟空の焦り声が聞こえた。

 金角の手を離れた瓢箪が、落下したのであろう。

 

 縦に横に回転する瓢箪の中で、玄奘と金角と沙羅は、酸の酒をにもろに浴びた。


 玄奘の全身に、ひりつくような痛みが走る。


「くっさ! まっず! 何この酒」


 酒を被った拍子に飲んでしまったのであろう。玄奘の頭上で、沙羅がえづいた。酒の味に文句はあるようだが、玄奘のような皮膚の痛みは感じていないようである。

 やはり、人間に比べて妖魔は丈夫らしい。


 瓢箪はしばらく転がった後、横倒しの状態で静止した。


 瓢箪の上部にいる沙羅が、くびれ部分から身を乗り出し玄奘に手を伸ばす。


「こっちは乾いてるわ。早く!」


 くびれから上の空間には、酒が侵入していないようである。玄奘は眩暈でふらつきながら、金角を酒溜まりから引っ張り上げ、ようやく沙羅の手を取った。


 その時、また瓢箪が大きく揺れる。

 横倒しになっていたところを、何者かが立て直したのである。


 玄奘と金角はまた、酒溜まりに滑り落ちた。


「がばっ! ごぶごぶ」


 酒溜まりに頭から突っ込んだ金角が、溺れたような声を上げながら手足をばたつかせた。酸の酒を大量に飲んでいるようである。


 玄奘とて無事ではなかった。今度は、全身に針を刺されたような痛みを感じる。

 皮膚がめくれたのだろうかと思ったが、視界に入った自分の両腕は赤みをおびてはいるものの、それ以上の損傷はなかった。

 これ以上の負傷を防ぐ為にも酒をたっぷり吸った着物を脱ぐべきだが、まずは酒溜まりから脱出しなければならない。早く早くと、気ばかりが焦る。


瓢箪ひょうたん奪ったんならさっさと出しなさいよバカ猿! 何やってんのよ!」


 沙羅が瓢箪の入り口に向かって怒鳴った。


「やかましいちょっと待て! 札が剥がれねえんだよ! ――おわあ!」


「悟空貴様! ワシらの瓢箪を返せ!」


「うっせえおっしょさん出すのが先だ! あっコラ岩投げんなよ危ねえな!」


「八戒手を貸せ! また玉龍が岩に潰された!」


「俺も足潰されてんの! こっち先に助けてよ悟浄!」


 どうやら外は外で、すったもんだしているらしい。

 瓢箪の中の三人は、諦めたように肩を落とした。


「ちっくしょー剥がれねえ。どうやったら剥がれんだよこれ!」


 瓢箪に貼られている『太上老君急々如律令奉勅(たいじょうろうくんきゅうきゅうにょりつれいほうちょく)』が剥がせず苦戦しているようだ。

 悟空の苛立った声を聞きながら、玄奘は金角を沙羅が待っている上部へ押し上げる。

 

「こんな奴、放っときゃいいのに。ほんとお人好しなんだから」


 沙羅がブツブツ言いながら金角を引き上げる。

 沙羅は瓢箪のくびれ部分に双刀を突き刺し、それを足がかりにしていた。


「かたじけない三蔵。敵であるワシを助けるとはお主、誠の男じゃのう!」


 沙羅に引っぱり上げられながら、金角がおんおんと泣く。酔っているらしい。泣き上戸だ。


「ホント迷惑! なんで返事したのアホなの!?」


「仕方なかろう! 悟空の奴め、モグラみたいに地面の底からひょっこり顔を出しよったんじゃ。ビックリして返事もするであろうが!」


「しないわよ!」


 沙羅と金角が言い合いを始めた。

 玄奘が「二人とも!」と止めに入る。


「今はそんな時と場合では。沙羅、私もお願いします」


 早く引き上げてくれと、沙羅に手を伸ばした。


 金角を正面の窪み部分に押しこんだ沙羅が、仏頂面で玄奘を見下ろす。


「あんたもあんたよ三蔵。あたしの事好きなの嫌いなのどっち!」


 答えねば引き上げてやらぬと、ぷいと横を向いてしまった。

 

 玄奘は唖然とした。

 この状況でまさかその話題を蒸し返されるとは思っていなかった。しかも、与えられた選択肢が両極端すぎて答えられない。

  

「どちらと聞かれても」


 詰問された玄奘は言い淀む。

 答えを待つ沙羅の視線が熱かった。

 

 そこに助け船を出したのは、意外な事に金角である。


「おい女。三蔵は女人になびいたりはせん。女犯にょぼんは重罪だぞ知らんのか」


 宗教が異なるとはいえ、流石は神の眷族けんぞくである。僧侶の戒律に関する理解は深い。しかし残念な事に、沙羅は仏の教義が通じる相手ではなかった。


「戒律なんてどうでもいいのよ。心身ともに、こいつは間違いなくでしょうが」


「坊主は特別枠じゃい!」


 酒気のせいか、酸が皮膚を害する猛烈な痛みのせいか、それともこの無秩序な会話のせいか。玄奘はとうとう頭痛を覚えはじめた。


「二人とも。今は本当に、そんな時と場合では」


 頭痛に伴い、視界がぐらぐらと揺れだす。

 その時、外からまた話声が聞こえた。


「おい銀角、これどうすんだよ!?」


「なんじゃい!」


「「「「「「あ」」」」」」


 瓢箪ひょうたんの中と外。全員の声が揃う。


 唯一、金角だけがその後、頭を抱えて絶叫した。


「弟よおぬしはバカかー!」


 絶叫の後。玄奘の頭上に、今度は銀色の巨大な尻が落ちてきた。

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