第28話 瓢箪の中の押し問答

「相手というのはもしや、私、ですか?」


 おそるおそる確認してみる。

 肯定の印なのだろう。沙羅が「うふふ」と含み笑った。


「あんた朴訥ぼくとつすぎるけど。まあ、お喋りな男よりはいいかなって」


「一体、どうしてそんな――」


 勘違いを。


 という決定的な単語を、玄奘は思わず呑みこんでしまった。

 花も嫉妬して枯れてしまいそうなほど幸福に満ちあふれた微笑みを、沙羅が浮かべていたからである。


 しかし、玄奘の中途半端な問いかけは、沙羅が勘違いをした原因を明らかにする程度には役立った。


「八戒が言ってたじゃない? 『惚れた弱みだー』って」


 沙羅が艶やかな黒髪をくるくる弄びながら、八戒の声色を真似た。


「え?」


 八戒はそんな事、言っていただろうか。

 玄奘は、八戒と交わしたこれまでのやり取りを、順を追って思い出す。そして、今日の記憶に到達した。


 ……言っていた。


 しかも、つい先ほどである。沙羅の枕元で。


「目覚めてたんですか」

 

 沙羅が、はにかみながら頷いた。

 

 狸寝入りをしていたとは、気が付かなかった。多分、悟空でさえ騙されていたはずだ。


 それはそうと、あれについて自分は何か反応を示しただろうか。

 玄奘はまた、記憶を探る。


 ……何もしていない。


 悟浄が鍋に水を入れて持ってきたので、そちらに気を取られたのだ。


 自責の念に駆られた玄奘は、手で顔を覆いたくなった。そんな事をしては落ちてしまうので、実際には思いきり顔をしかめるだけに留める。


 そんな玄奘の心境を知ってか知らずか。沙羅はうっとりとした表情で、玄奘の胸元を人差し指でぐりぐりとほじくり始めた。


「あたしに腕をやるって言ってくれたり、バカ猿にお札を貼るよう求めてくれたり。とても嬉しかった」


 玄奘は思わず、後悔の叫びを上げかけた。


 否定も肯定もしなかったその後の会話が、あらぬ誤解を生んでしまったらしい。これはもう、『しまった』の一言である。


―― いや、今はそんな事よりも。

 

 後悔よりも自責よりも、差し迫った状況が玄奘の思考を現実に戻した。


 剣の柄を握っている手が痺れてきたのである。


 とにかく一刻も早く、沙羅に腹の上からどいてもらわない事には、時を待たずして酸溜りに落ちてしまいそうだった。


「沙羅、そろそろどこかに掴まってもらえませんか」


 玄奘は沙羅に協力を求めた。両手両足に力を入れるあまり、声が震えてしまう。

 

 しかし沙羅は自分が掴まれそうな出っ張りを探すどころか、玄奘の顎をつるつると撫で始めた。


「あたしもね。あんたの目元と、尖ったあごの輪郭。結構好きっていうか」


 ダメだ全然聞いていない。

 玄奘は悲鳴を上げかけた。実際声に出さなかったのは、修行僧時代に積んできた苦行の成果と言えよう。


「沙羅。本当に、お願いします」


 震える声で懇願する。


 すると、沙羅は目が覚めたように、一度大きく瞬きをした。

 ぶるぶると震える玄奘の両手足を順番に見てから、額に汗をかいている玄奘の顔を覗きこんでくる。


「あたし重いの?」


「重くは無いです! けして重くは無いんですが」


 声を低く投げかけられた問いかけを、玄奘は必至に否定した。

 嘘は言っていない。僧侶には『不妄語戒ふもうごかい』という虚言を禁じる戒律がある。故に玄奘は、


「軽くもないので」


 と最も重要な事実を、一拍の間の後に追加して伝えた。


 沙羅はやや不機嫌そうに「ふうん」と半眼に玄奘を見下ろしたが、やがて「いいわ」と頷いた。


「じゃあ接吻キスしたらどいてあげる」


 どうしてそうなる。

 

 玄奘は愕然とした。

 

 沙羅は無邪気に笑いながら、玄奘の口元を人差し指でつつく。


「あたし、まだ殿方と口づけた事無いの。どうせ死ぬなら、ちゃんとしておきたいじゃない」


 玄奘は全力で首を横に振った。

 今この状態で空気を断たれたりしたら、絶対に筋肉が耐えられなくなる。


 沙羅がまとっていた甘い空気に不穏なものが流れ始める。

 ここからの押し問答は、玄奘にとって断語苦行だんごくぎょうに匹敵するほどの苦しみとなる。


「どうしてダメなの?」


「呼吸を止めたら落ちるんです」


「どうせ出れないんだから諦めなさいよ。好きだからあたしと一緒に吸い込まれてくれたんじゃないの?」


「それは、体が勝手に」


「好きでもないのに命張ったわけ!」


「だからそれは――」


 その時、外から「金角!」という悟空の声が響いた。続いて、「おう!」という元気なだみ声が。


 そんな、まさか!


 玄奘は瓢箪ひょうたんの出入り口を見上げた。


 そのまさか、である。

 ぽっかり空いた暗い空間から吸い込まれて来たのは、金色の鎧を身にまとった、雄牛一頭ほどもある巨漢、金角だった。


「あ。三蔵」

 

 尻から落ちて来る金角と目が合った。


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