玄奘西遊記

みかみ

序章

第1話 牛魔王の復讐が始まる

「おんどれぇえぇ! 猿ぅぅ! 許さんぞぉぉぉ! 天界も仏界も、捻り潰したらぁぁ!」


 山奥の洞穴から、巻き舌混じりの慟哭が響く。聞く者の血を凍らせるような、怨恨の雄叫びだ。

 その洞穴の入り口には、岩肌に『新芭蕉洞しんばしょうどう』という朱文字が彫られていた。そうやって、ここが妖魔の巣窟であると周囲に知らしめているのだ。


 洞穴の中には搭一つを軽く納めてしまえるほどの空間があり、見事な朱塗りの建物が岩肌の天井高くそびえ立っている。その建物の中で先程から咆哮を上げているのが、この洞窟の主、牛魔王ぎゅうまおうである。


「ほんで、弟弟子おとうとでしの黒豚はなぁ。ワシの軍勢を一掃しただけやのうて、かわゆい妾まで殺しよったんじゃ! ワシは連行された仏界で、仏どものケツに敷かれながら、ずうっと復讐の機会を待っとったんやぞ!」


 牛魔王は妖仙である。五年ほど前に、芭蕉扇をめぐって義兄弟の悟空ごくうと戦った。その戦いで彼は、悟空のみならず天界・仏界までを相手にし、敗北の末に鼻に縄をかけられ、ぽくぽくと仏界へ連行された。それからは、御仏の乗り物として、背中を使われていたのである。


 彼が、屈辱の牛舎暮らしから逃れられたのは、幸いにも鼻づらに通された縄が緩んでいたタイミングに、牛舎番が居眠りをしていたからであった。


 牛舎をこっそり抜け出した白牛姿の牛魔王は、仏界からすたこら逃げ出し、人間や妖魔が住まう地上界に身を隠した。それからは住まいをこの『新芭蕉洞』へと移し、手下を集め、復讐の為に新たな妖術の開発に心血を注いでいたのである。

 牛魔王は、三日に一度は手下を集める。そして彼らの前で、平常時でもドスがきいている口調に更に凄みをきかせて、怨みつらみを吠えまくり、鬱憤ストレスを発散するのだ。

 本日も、定例集会の如く牛魔王の御前に集められた手下達は、『またか』といった様子で、主の愚痴を聞いていた。

 純白の雄牛の頭を持ち、山の如き見事な獣人の体躯を誇る牛魔王は、実に猛々しい。しかし、その口から定期的に吐き出される怨み言は、手下達にとってはもはや、耳にタコ。『これさえなければ格好いいのに』と、少なからず辟易させていた。


「それで、その復讐はいつ果たされるんだ? 悟空も三蔵さんぞうも、仏になっちまったってのに」


「この二年、いつまでたってもボヤキばっかで、なんも進展がねえんだもんなぁ」


 ざっと二百名は集まっている大広間の中、熊頭と虎頭の妖魔がひそひそ話をはじめる。

 失礼な部下二人の居所を瞬時に見つけた牛魔王は、「ボヤキも今日で終わりじゃ阿呆!」と鋭い眼光で威喝した。


「ワシの野望を叶える新術が、やっと完成したんや。やから今日からワシは、三つの新術をもって、復讐を開始する! 三つや! 三つもやぞ!」

 牛魔王は、尖った爪がくっついた太い指先を三本ビシリと立たせて、興奮気味に『三つ』を強調した。


「それで妖力使い果たしてたら、身も蓋もねえんじゃねえか?」


「最近妙に牛の姿ばっかでいると思っていたらけど、人型に化ける余裕がなかったからか」


 別の妖魔二人が、またひそひそと話しだす。


「なんか言うたか」


「「本日も素晴らしい毛並みでございます!」」


 やはり驚異的な観察眼でもって見つけ出され、これでもかという低い声とともにギロリと睨まれた部下二名は、平身低頭した。

 牛魔王は大きな鼻腔をフンと鳴らすと、前へ美しく湾曲した角の先をいじりながら、妖力の枯渇を認める。


「確かに、ワシの妖力は、スッカラカンになった。三つも同時に大術を使うたさかいな。今でも獣人のナリがやっとじゃ。ホンマはワシが異界に行って大暴れしたいところやが、自分で自分を送れるほどの力がまだない。そやからワシは、先発隊を送る事にした」


 せんぱつたい…


 部下達が、ぽかんとした顔でオウム返しした。


「そうや。先発隊が行くんは、この先や」


 本来、草食獣である牛には無いはずの牙をのぞかせた牛魔王は、後ろにかかっていた不自然なほどに大きな垂れ幕を、バサリと剥ぎ取った。

 その下から出てきたのは、二間(三m六十cm)はあろうかという牛魔王の体をすっぽり囲ってしまえるほどの、鏡のような楕円形の扉だ。中央部分が鏡のように見えたのは、そこが透明な輝きを放っているからだった。しかし、その表面に牛魔王の後ろ姿は映っていない。


「お館様、それは何です?」


 人間の若者そっくりの手下が、牛魔王に質問した。

 牛魔王は不敵な笑みを浮かべると


「異界へ通じる扉じゃ」


 と答えた。


「ええかお前ら、よう聞けよ。この世には、兄弟姉妹みたいな世界が幾つも存在するんや。ほんで、ここみたいに天界仏界が介入しやすく、ワシらみたいな妖がぎょうさんおる世界もあれば、天界仏界が顔を突っ込みにくい上に妖も殆ど存在せん世界もある。お前らが行くんは、後者の世界や」


 得意げに腕を組んだ牛魔王を、手下達はやはりぽかんと見上げるばかりだった。

 全くついて来られていない手下たちを前に、牛魔王は高らかに笑う。


「まあええ。行ったら分る」


 そして部下達に、課題を発表する。


 一つ。仏教の救世主である三蔵法師を喰らい、世の中を混沌に陥れて妖魔が住みやすい環境を作っておけ。


 一つ。悟空を殺せ。


 この二つのどちらかを達成しないことには、こちらの世界へ帰るすべはない、と。


 えええええ!


 手下達から、悲鳴が起こった。驚きではなく、抗議の悲鳴である事は、牛魔王も承知していた。なので


「じゃかぁしい!」


 と一喝して黙らせる。


「ワシはこれから一つ目の新術で、退治されたり仏に連れて行かれた妖魔どもを蘇えらせる大仕事があるんや。この扉は、ワシの二つ目の新術じゃ。弱い妖魔ほどワシの妖力に負担をかけず異界へ送れる。せやから、下っ端の奴から異界に行ってもらうでな」


「そんな横暴な」


「拒否権あると思うなよ」


 一人の勇気ある女妖狐が声を上げかけた。しかし間髪いれず、とてつもない怒気を含んだギョロ目で威圧された彼女は、しゅるしゅると身を縮めて黙りこんでしまう。


「まずは『火付け番』!」


 やや反抗的な手下達が大人しくなったところで、牛魔王はさきがけを発表した。

 牛魔王率いる妖魔軍で『火付け番』は、ただ一人である。


「おめでとうございますぅ。異界にご招待決定じゃ」


 牛魔王はニヤリと笑った。対照的に、手下達からは「うわあ……」という憐みの視線が、一斉に『火付け番』へと注がれる。

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