第20話 僕に向けたあの視線は、先生を見ていた。
「まあ、いい。紅茶でもどうだ。煙草は?」
そういうと辺境伯は、カップに紅茶を注ぎ、差し出してくる。
そしてシガーケースから、煙草を一本出す。
「ああ、ありがとうございます。」
本当に嬉しい。紅茶はどうでもいいが。煙草だ。
いつぶりだろう。最近は禁断症状こそ出ていなかったが、吸いたい欲は持っている。
それは、現代のものに慣れている僕からすれば物足りないものだった。
勿論、煙草の葉感は十分に感じられるが、それだけだ。
香料のようなものは僅かにしか使われておらず、本当に「煙草」という感じだった。
吸い始めたのも束の間、ウィスが強く鼻を擦り始めた。
そしてよろよろと、僕から離れていく。
これは嫌な予感がする。
というか、もう、そうだろう。
猫ちゃんは特に、煙草の匂いが嫌いなんだ。
いやあそうか。そう思うと、二吸いもそこらに灰皿に捨てる。
昔であれば考えられない行為だな。
「口に合わなかったか。」
「いえ、とても美味しかったです。ただ、この子が嫌がるみたいなので。」
僕はこの世界で本格的な禁煙することになった。
彼は煙を嫌がるウィスを見ると目元を綻ばせた。そして話を進める。
「その子猫についても気になる事は数多いが、まずは君だ。」
「君は彼女、ダスカロスの教え子だというじゃないか。その証明は出来るか?」
やはりそうか。ただこの人は僕が言い出す前から、それを確信し話を進めている。
おおよそ、先生は僕の身体的特徴や、名前を伝えている。
ここで何も出来ない無能のフリをしてもよかったが、この時は妙な気持ちになっていた。
先生に泥は塗れないな。
そう思うと僕は、持っていたティーカップを宙に固定する。
「ほう。」
彼は声を漏らす。
「こんなことしか、まだ、出来ないですが。」
辺境伯は、先までウィスに向けていた、柔らかな視線を僕にも向ける。
それは懐かしむような、興味を持つような、不思議な優しさが含まれていた。
彼は話し出した。
「そうだな。私はダスカロスとは旧知の中だ。そしてそれなりの恩もある訳だ。もう当分会っていないが、一月ほど前のことだった。この執務室の宙に、こんな手紙が浮いていた。」
『イスキューロン。もうすぐ私の愛する教え子が君の街にやってくる。名はアル。白髪の青年だ。どうか歓迎してやって欲しい。頼んだ。』
彼はその手紙を大事そうに、丁寧に引き出しから取り出し、僕に見せた。
そうか。僕に向けたあの視線は、先生を見ていたのか。そう感じた。
「サインなどはなかったが、こんな芸当をするのは彼女だけだろう。その教え子が、まさか不法侵入とは思いもしなかったがな。」
諫めるように彼は言う。
「そうですか…。ありがとうございます。」
先生にはお世話になりっ放しだ。ただ、申し訳なさよりもその気遣いへの嬉しさが、遥かに勝っていた。
「構わん。この街では君の行動に特に制限は付けない。好きにするといい。領民を無暗に害さなければな。」
多分これは、破格の条件だ。とんでもないことだ。
先生の力もあるだろうが、辺境伯の懐の広さには驚いた。
「そして。もう夜も更けている。狭い屋敷だが、泊っていくといい。君の身元については、とても興味を惹かれるが、それも深く追及はしない。」
多分ではない。これは超破格の対応だった。
そういうと部屋の後ろから、老齢の使用人が現れた。
「では、アル様、お部屋へとご案内致します。」
僕は感謝の言葉を長々と述べようとする間もなく、執務室から追い立てられた。
「あ、あの、本当に。本当にありがとうございます!」
彼は視線を窓に向け、手だけをこちらに挙げた。そして呟くように言った。
「タ…。ダスカロスは、元気にしていたか。」
僕は答える。
「はい。とても。」
彼の横顔は、嬉しそうに、少し寂しいように見えた。
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案内された部屋は、老舗高級ホテルのスイートのようだった。
品のある装飾もそうだが、特に夢中になったのはベットだった。
いつぶりだろうか。清潔な白のシーツ。雲のように柔らかな枕。沈み込むようなマットレス。
僕が元の世界で使っていた寝具よりも、数倍上等なものだった。
見慣れはしないが綺麗な部屋に、ウィスはワクワクを抑え、うずうずしていた。
はしゃいでいるところを見られることが恥ずかしいのだろう。
「散らかさないようにね。」
そういうと僕は、壁の方に顔を向け、眠りについた。
ウィスが存分に幼さを発揮出来るようにと、配慮をするためだ。
ウィスが駆け回る軽い足音をBGMに、この世界に来たどの日よりも、深く眠った。
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