第33話 肉じゃが

「よし、行くか」

「おう」


 マンションを出て市役所へ向かう。十月も半ばを過ぎたというのに、日が昇ると夏のように暑い。私と哲夫は今日は有給を取った。平日に二人で出かけるなんて、あまりないことなので新鮮だ。


 哲夫がいつものように手を出し、少し考えてから手をつないだ。


「ケジメはどうなったんだよ」

 と哲夫がからかうので

「まだ夫婦だし」

 と手にキュッと力をこめる。


 私は今夜から、新居に移る。哲夫は、一人暮らしには少し贅沢な2LDKの部屋に残ることにした。舞さん一家はまだ引っ越し先が見つかっていないので、哲夫はもうしばらく双子ちゃんのお隣さんでいられる。


 いつか哲夫が舞さん一家と一緒に暮らせるようになれば、私としては嬉しいんだけど、それはどうなるかわからない。


 私の引っ越し先は、今のマンションから徒歩十分もかからないところだ。私たちが離婚することで、舞さんとの関係も変わってしまうかもしれないけど、これからも舞さん一家にちょこちょこ遊びに行けたらいいな、と願っている。


 昨日の夜、哲夫にマンションのスペアキーをわたした。私の荷物は全て新居に移し、入らないものは処分した。哲夫に「ケジメだよ」と説明した。


「ねえ、哲夫」 

 市役所までの道を歩きながら話しかけた。

「うん?」

「離婚したら、手をつなぐのもナシだからね」

「わかってるよ。ケジメだろ」


「二人きりで会うのも、控えたほうがいいよね」

「別に、したいようにすればいいんじゃないの」

「ダメだよ。離婚した意味なくなるじゃん」


「電話は?」

「電話はいいって思うけど。私、あんまり電話好きじゃないからなぁ。離婚ってめんどくさいね」

「お前なぁ」

 哲夫が呆れたように笑い、私も笑った。


 バッグの中には署名された離婚届が入っているのに、哲夫の隣で笑っていることがあんまりにも当たり前で、明日も明後日もずっとこうやっているような気がする。


 市役所に着いて二人で受付を探し、係の人に書類を渡した。記入漏れや不備がないか確認されたあと、何も問題はなかったようで、すぐに受理された。あっという間だった。


「あっけなかったな」

「そうだね」

 クーラーの効いた市役所を出ると、外はまだジリジリと暑い。「アイスコーヒーでも飲んでかない?」と哲夫に提案したいところだけど、それは不謹慎というものだろう。


「今、アイスコーヒーが飲みたいって思ってるだろ」

 哲夫がそんなことを言うので、パンチをお見舞いしようとして、やめておいた。


「哲夫、先に行きなよ。私は一人で新居に帰る」

「俺は、せっかくだから映画でも観て帰る。美波が嫌いなホラーとかさ」

 哲夫はニヤリと片ほほをあげ、じゃあな、と手をふり、さっさと歩き始めた。


「哲夫」

 あわてて呼ぶと、哲夫が背を向けたまま足を止めた。


「私はこれからも、死ぬまで、哲夫の味方だからね。私は、結婚とお別れしたんであって、哲夫とお別れしたわけじゃないから。

 哲夫がこれから誰と結婚しても、うっかり人を殺しちゃっても、世界中の人に嫌われても、私は哲夫の味方だから」


 哲夫が私を振り返った。ビーグル犬みたいな顔。案外がっしりした肩。いつも履いてるジーンズとスニーカー。

 今までも、これからも、生涯愛しい人。


「なんだか、永遠の誓いみたいだな」

「そうだよ。私の愛は永遠さ」

 クサいことを言ってしまって、照れ臭くて私は吹き出してしまったのに、哲夫は泣きそうな顔になった。


「俺もだ、美波」

 哲夫のきれいな瞳が、今は一段とキラキラして見える。私をじっと見つめたあと、哲夫はくるりと背を向けて歩いて行った。


 落ち着いたら、犬を飼おう。

 料理もがんばろう。豚バラの肉じゃがをマスターするのだ。

 哲夫のいない日々を上手に過ごせるように練習しよう。


 ああそうだ、まずは行ったことのないコーヒーショップへ行ってみよう。アイスコーヒーを一人で飲むのも悪くないかもしれない。


 ジリジリ焼ける地面に、一歩踏み出す。涙がポタポタと落ちて、コンクリートに灰色のシミを作った。


 上を向くと、青い空が目に痛いくらい眩しくて、どこへだって行ける気がした。


**「肉じゃが」のお話はこれで完結です。ここまで読んでくださってありがとうございました! 次は『まどか』で働いている男性を主人公のお話にする予定です。**

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食堂『まどか』のふつうのご飯 かしこまりこ @onestory

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