第7話 煮込みうどん
味噌を入れる前の豚汁が、コトコトと平和な音を立てている。
リビングにいる
「私、
(嫌だなぁ、こんなこと言うの)と、言ったそばから後悔した。この、限りなく完璧に近い幸福な世界の中で、私の言葉だけが汚い。
美由紀には、ずっと言わないでおこうと思っていたのに。実際に、半年も黙っていたのだ。
*
翔くんのことは、美由紀を通して知り合った。ケンさんが勤めている会社のアルバイトくんで、性別や年齢に関わらず、誰とでも仲良くなる不思議な人だった。彼がいるとその場が和むので、なにか集まりがあると「翔くんも呼ぼう」となるのだ。最初に出会ったのは、美由紀の新居祝いのバーベキューだった。
「翔くん、いい子だけど、狙っちゃダメだからね」と美由紀に最初から釘を刺されていた。定職に就かなくてアルバイトなことと、八つ年下なことが理由だった。
「今から付き合うんだったら、結婚相手として少なくとも最低条件を満たしている人じゃないとダメだよ。それ以外は時間の無駄だよ」と言われた。
美由紀の言うことはもっともだと思った。
なのに私は、翔くんに恋をしてしまった。
付き合い始めたとき、もう三十二歳になっていたから、結婚を全く意識しなかったといえば嘘になる。
でも、結婚だとか子どもだとか、そういう話を出せば、きっと翔くんは私から離れていくだろうということも本能的にわかっていた。だから私は、そういうことには興味がないふりをした。そうやって三年が過ぎた。いつか結婚するなら、翔くんじゃないと嫌だった。私は、翔くんに選ばれたかったのだ。
翔くんに「誰とも結婚する気がないんだ。
「今は辛いかもしれないけど、私はこれでよかったと思うよ。はっきり言って、翔くんは千遥にふさわしくなかったって思う」
美由紀に、そう言って慰められたときに、なんとなくピンときてしまった。美由紀かケンさんが翔くんになにか助言をしたんじゃないかと。
ここ半年の間、美由紀と翔くんの話をするたびに、私の疑いは確信に近いものに変わっていった。でも、確証はなかったし、美由紀を糾弾したところで翔くんが戻ってくるわけじゃない。
心に大きな棘のようなものが残ったけど、一生何も言わずに水に流そうと思っていた。それなのに。
「結婚する気がないんっだったら別れろとかって、翔くんに言ったんでしょ?」
私が棘だと思っていたものは、膿だったのかもしれない。プツンと小さな音を立てて、どろりと不潔なものが出て行った気がした。
もともと悪かった美由紀の顔色が、さらに悪くなった。怒っているような、怯えたような目をしている。こんな美由紀を見るのは辛い。
「別れろとは言ってない。でも、これからも付き合うんだったら、千遥のこともちゃんと考えて欲しいって。女は子ども生むタイムリミットがあるんだからって……。まあ……、うん、そういうことは、言った」
やっぱり、と思ったけど、美由紀の口から聞かされると思いの外ショックだった。膿のように汚い気持ちが、胸や頭を覆いつくしてしまう。
どうして。なんでそんな余計なことを。翔くんがいれば、私はそれでよかったのに。今まで溜めていた暗い感情が、堰を切ったようにどんどん溢れてくる。
「だって、千遥、翔くんと三年も付き合ってたんだよ?」
美由紀が私を睨むようにして、きっぱりと言った。
「三十代の女の三年がどんだけ貴重か、翔くん、ちっともわかってなかったじゃない。千遥に尽くすだけ尽くさせて、自分は胡座かいて、将来のこととかちっとも考えてなくて。あんな子どもで自己中な男のために、千遥が人生を台なしにするのが嫌だったんだよ」
頭にカッと血が上った。何もわかってないくせに! と美由紀を罵倒したい衝動をやっとのことこらえる。
結婚して子どもを生むのが、そんなに偉いのか。そうしない人生は、台なしなのか。結婚しない男はみんなダメ男なのか。
美由紀みたいに、翔くんのことは『夫候補失格』とみなして、正しく、効率よく、婚活していれば良かったんだろうか。
私はいつも一生懸命だった。稼ぎの悪いお店で何年も働いて、結婚する気のない男のために、身なりにお金と手間をかけてきた。その結果、貯金もキャリアもない、子どものいる家庭どころか、彼氏さえいない、ときどき泣きたくなるほど不安な毎日を生きている。
私の人生が台なしにされたと言うんなら、そうしたのは私自身だ。美由紀は、そんな簡単なこともわからないんだろうか。翔くんを否定することは、私自身の生き方を否定することと同じことだ。
「三十五歳で独身って、そんなにかわいそう?」
私の言葉に、美由紀の顔が悲しそうに歪んだ。
うわーん。リビングから、木華ちゃんの泣き声が聞こえてきた。
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