第17話 チョコレートパフェ

「後任のかたは、もう決まったんですか」

 中嶋の最後の日まであと一週間という金曜日、彼女が僕のデスクにやって来て聞いた。

「とりあえずひとり、経験のある人を、最初は派遣で雇う話になってる。再来週から来てくれるらしいよ」


 彼女がいるうちに引き継ぎ期間を設けたかったのだが、神崎や中嶋レベルのSEを見つけるのは難しく、やっと見つかった人が始められるのは、中嶋が退職したあとの月曜日だった。

 それでも、僕がたったひとりになってしまう事態が避けられたのは幸運だといえるだろう。


「そうですか」

 中嶋は無表情に答えた。


 彼女は、出勤時間よりも早く出社して、コツコツと引き継ぎマニュアルを作っている。業務時間内にやるべき作業なのに、業務時間中は忙しくてマニュアルを作る暇がないのだ。


 彼女が作るマニュアルは丁寧でわかりやすい。新しい人が入ったときに、こういう書類があるとないとでは大違いだ。時間外に作業してまで作ってもらえるのは、非常にありがたい。

 責任感の強い人なのだろう。改めて惜しい人材だなと思う。


「あの、確認なんですけど」

 中嶋が、まわりを見回してから声を落とした。

「送別会は……その」 

「えっと。やらないでほしいって言ってたよね?」

「はい」


 中嶋が辞表を出してから数日後、彼女から「送別会は、しないでいただきたいんです」と頼まれた。


 長く勤めた人が退職するときは、親しくしていた社員と一緒に飲みに行くのが恒例で、普通なら直属の上司が幹事をすることになっている。

 飲み会の幹事なんて、あまり得意なほうではないが、そのくらいのことはしてあげたいと思っていた。


「本当にいいの? 中嶋さんにお世話になった社員さん、たくさんいると思うんだけど」

 僕の言葉に彼女は目を丸くした。それから、例によって口をモゴモゴと動かす。


 ああ、まただ、と思う。中嶋と話すとき、僕は何かを間違えるらしい。それが何なのか僕にはわからない。

 彼女の顔がみるみる険しくなっていく。


「あの、本当に。絶対に、送別会はしないでいただきたいんです!」

 中嶋は必死の形相をしている。

「……わかった。絶対にしない」

 彼女の剣幕に当惑しながら、僕は努めて穏やかな声を出した。


「サプライズとか、やめてくださいね」

「しないしない。サプライズとかないよ」

 中嶋はいくらかほっとした様子で、軽く一礼すると僕のデスクから離れて行った。


 送別会だとか、何かの集まりの中心人物になりたくない人というのは、いる。僕もどっちかというとそのクチだ。歓迎会も送別会も、ありがたいとは思うが気疲れする。


 それでも、中嶋のあの反応は少し異常な気がする。

 神崎がここにいればなあと思う。神崎だったら、もっとうまく気持ちを聞き出していただろう。彼女が幹事だったら、送別会もあれほど頑なに拒否しなかったかもしれない。そもそも、神崎が辞めなければ中嶋は辞めてないのかもしれないが。


 そこで僕はブルブルと二、三回頭を振った。こうやって、考えても仕方のない思考のスパイラルに陥ってしまうのは僕の悪い癖だ。


 みぞおちのあたりがジクジクと痛む。心臓なのか胃なのかわからないが、最近、変な痛みが時々急に現れては消えていく。

 胸をさすりながら、はあ、と一つため息をついて、仕事に戻った。



 変わっているのかもしれないが、僕は仕事帰りの満員電車が好きだ。会社を出ると、すぐにイヤホンを付ける。好きな音楽を聴くこともあるし、ポッドキャストのときもある。


 お互いの肩が触れ合うくらい近くにいる人たちが、僕とはまったく違うことを考えていて、それぞれ別のリアリティを生きているのだということに、不思議な安心感を覚える。


 見知らぬ集団の中にいると、かえって人との距離が遠くて、僕は完全にひとりになる。幼いころ、図書館の隅でひとりで遊んでいたときの自由さと似ている気がする。

 自宅の最寄駅を降りるとき、僕の帰りを待っている優希とさくらのことを考える。その時点で僕はもうひとりではない。誰かの夫であり、父親だ。


 きゅうううん。


 胸の真ん中が、変な感じでつっぱった。一瞬、息が詰まり、急いで息を吸い込む。鼓動が早くなり、体温が上がる。何度か深呼吸をすると、胸のつっぱりは消えた。

 なんだろう。最近、寝不足でだいぶ疲れが溜まっている。そのせいだろうか。


 先週八分咲きだった桜は満開で、駅前の通りに植えてあるソメイヨシノが、桜吹雪をふらせている。日がすっかり沈んで夕焼け色もなくなり、まだかろうじて暗くなっていないこの時間。僕の住む平凡な街が、映画のワンシーンのような風情をしていた。


 イヤホンを耳から外した。生きている街の音が聞こえてくる。家路を急ぐ多くの学生や会社員の中に、家族連れもポツポツといる。


 食堂『まどか』のある路地を過ぎて、コンビニの角を曲がったところで、三人家族の後ろ姿が見えた。お母さんとお父さんの真ん中に小さな子どもがいて、三人とも仲良く手をつないでいる。


 お母さんがお父さんのほうを向いて、口に手を当てて笑った。

 優希だった。

 真ん中の小さな子どもは、さくらだ。


 さくらの小さな手を握っているのは、映画からそのまま抜け出したような、背格好の良い紳士。三人とも仲良く笑っているその絵面が、あまりにも幸せそうで声をかけるのもためらわれるほどだ。


 三人家族のお父さんに見えた男性が、原田さんだと気づいたとき、僕の中にムクリと今までにない感情が芽生えた。いい感情ではない。嫌悪感? 嫉妬? よくわからないが、その感情は急激に膨らんでいき、自分でも驚くほど激しい感情に変わっていった。


 ボコボコにしてやる!


 なぜだか、絶対的な質感を持ってそう思っていた。誰かに対して、それほど暴力的な気持ちになったのは、初めてのことだ。


 その気持ちは、願望というよりも、使命感に近い。

 今、戦わないと、オスとして負けてしまう。僕の一番大切なものを奪われてしまう。そんな恐怖が襲ってきて、大量のアドレナリンが一気に体中を駆け巡った。


 あれこれ考えるよりも先に、僕は走っていた。三人との距離は近い。すぐに近づいた僕は、さくらと手を繋いでいるほうの原田さんの腕をつかんだ。


「僕の家族に、なれなれしくしないでください!」

 そういった意味のことを、言おうとしたんだと思う。でも、パクパクと動かした僕の口から出てきたのは、音のない息だけだった。


「あ、大野さん」

 びっくりした原田さんが僕の名前を呼んだ。

「パパ?」

「貴志くん?」

 さくらと優希も僕に気づいて目を丸くしている。


「大野さんも、今お帰りで……」

 掴まれた腕が痛いのだろう。ぎこちなく笑った原田さんの顔色が、次の瞬間にサッと変わった。


「大野さん!」

 もう一度僕の名前を呼んだ彼は、怖い顔をしている。


 痛い。痛い。心臓が、握りつぶされるように痛い。うまく息ができない。原田さんの腕を掴んだ手が石のように動かない。

 地面にガクンと膝がついた。


「大野さん、どうしたんですか。大丈夫ですか!」

 いうことをきかなくなった僕の体を、原田さんが両手で支えている。


「パパ、パパ!」

 さくらが泣きそうな顔で叫んだ。

「貴志くん!」

 優希が血相を変えて僕の顔をのぞき込む。


 いったい何が起こっているのか。胸の痛みで頭がどうにかなりそうだ。思考がバラバラで目の前がチカチカする。


 遠のいていく意識のなかで、誰かが「救急車!」と叫んでいるのが聞こえた。

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