第18話 チョコレートパフェ
「申し訳ありません」
父の声がする。
目を開けると、真っ白な空間にいた。誰もいないし、家具ひとつない空間だ。上を見ても空は見えず、足元は濃い霧のようなもので覆われていて、自分の靴が見えない。室内なのか屋外なのかもよくわからない。
ああ、ここは夢の中なのだ、と冷静に把握している自分がいる。
「申し訳ありません」
また父の声が聞こえる。と思ったら、父の姿が急に目の前に現れた。ペコペコ頭を下げている後ろ姿で、顔は見えない。
父の前には、優希とさくらが手をつないで立っていた。顔がちゃんとあるのに、まるで表情がないので、のっぺらぼうのように見えてゾッとする。
「すみません。決して悪い子ではないんです」
父はまだ頭を下げている。なにをあんなに謝っているんだろう。
優希の顔がいつの間にか僕の母の顔になっている。まだ若い頃の母。さくらではなく、男の子の手をつないでいる。
母の顔ものっぺりとして表情がない。母がくるりと父に背を向けた。男の子も同じように背を向ける。
男の子の手を握っているほうの母の手を、父がつかもうとして、するりと抜けた。
「待ってください」
父が言うのも聞かずに、母と男の子が去って行く。父の膝がガクリと地面に着いた。
「行かないでください」
悲痛な声だ。聞いているこちらの胸が張り裂けそうになる。
「離れないでくれ!」
父が叫んだ。
「すまない! すまない……」
父が幾度も叫ぶのもむなしく、母と男の子はどんどん遠くへ行って見えなくなった。
うなだれる父の後ろ姿を目前に、僕の目から静かに涙が流れた。拭っても拭っても、タラタラと流れ続ける。途方もなくやるせない気持ちが、僕をすっかり飲み込んで、まるで金縛りにでもあったみたいに指先ひとつ動かすことができない。
父さん、父さん。
心の中で呼びかけるが、父は気づかない。
父さん、父さん。
父さん、謝らないでくれ。
どうして父さんが謝るんだ。
父さんを置いて行ったのは、母さんじゃないか。
父さんは、あんなに僕たちを愛していたのに。
*
「あ、起きた?」
優希が僕の左肩をそっとさすり、左手を握った。
ぼんやりとした頭が、少しずつ覚醒していく。
最初に視界に入ってきたのは優希の顔で、その顔は疲れ切っていて、まぶたが腫れている。
ゆっくりとあたりを見回して、徐々に状況を把握しはじめた。
「ここ、病院?」
「うん」
「僕、倒れたの?」
「うん」
「心臓発作?」
優希はそこで、少し笑って首を横に振った。
「私も、そうかと思って……」
優希の目に涙がたまり、素早く指で目元をぬぐった。
「めっちゃくちゃ怖かった」
壁のほうを見つめながら、僕の左手をギュッと握りなおす。
「看護師さんに、起きたって報告しないと」
「さくらは?」
「家にいる。お義母さんに迎えに来てもらった」
「……原田さんは?」
「原田さんにも、もう遅いから帰ってもらった。あとでお礼言わないと。私が動転してたから、救急車呼んだりとか、すごい助けてくれたんだよ」
「そっか」
優希がナースコールのボタンを押すと看護師がやってきて、いくつか質問があったあとで医師がやってきた。
「奥様には少しご説明しましたが、パニック発作だと思います」
ベッドの横に座った医師がそう説明した。
「体に異常は見られません。案外よくいらっしゃるんですよ、急激なストレスで気を失うかた」
初老の医師は明るい声であっさりと告げた。多くの人間を診てきた人特有の落ち着きがある。
「最近、ストレスを感じるようなことがありませんでしたか」
「ストレス……ですか」
あの死ぬかと思ったくらいの痛みは、精神的なもの、つまりは気の持ちようということか? なんだか拍子抜けしてしまう。ストレスで死ぬ人もいるわけだから、軽く考えてはいけないのだろうが、精神的な理由で、あんなに肉体的な苦しさを覚えるものなのか。
「いえ、特には」
そう僕が答えると、
「ありました!」と優希が被せ気味に言った。
「ありました。たくさん、ありました!」
彼女の勢いにあっけに取られている僕をよそに、優希が続ける。
「義父が……この人の、父親が亡くなりました。
この人も義父も無口なんで、電話もラインもロクにしないし、私が言わないと、お互いに会いにも行かないような父子で。会ってもぜんぜん会話とかないんですけど。でも、とても仲良しだったんです。顔も性格も似たもの同士の双子みたいで。
お義父さんが癌になって、この人、仕事しながら必死でお見舞いに行って、最期を看取ったんです。本当に辛かったと思います。
そのあとすぐに同じ課のかたが産休に入られて、仕事がものすごく増えました。この人、娘が起きてるうちに家に帰って来るんですけど、家に仕事持ち帰ってくるんです。娘が寝てから睡眠時間を削って仕事してるんです。
同僚のかた、来月に復帰される予定だったのに退職されることになりました。同じタイミングで部下まで辞表を出したんです。
ものすごくストレスなはずです。
でも、ひとりで溜め込むタイプだから、『大丈夫』としか言わないんです。
困るんですよ。大丈夫じゃないときに、大丈夫じゃないって言ってくれないと!」
優希が一気にまくし立て、僕と医師が同時にポカンと口を開けた。優希が僕と医師を交互に見て、恥ずかしそうにコホンと一つ咳払いをする。
「いや、まあ、大野さん。奥様に愛されてて……よかったですね」
医師がその場を取り繕うように言った。
「奥様に聞いたところでは、こんな発作を起こしたのは初めてということですが、合ってますか?」
「あ、はい。そうですね……初めてです」
「私は内科なので専門外ですが、倒れるとまではいかなくても、同じような症状が続くようであれば、すぐに心療科へ行って相談されてください。
休息を十分に取って、ストレスを溜めないように心がけてください。ストレスは万病の元ですから、甘く見たらダメですよ。
奥様に、あまりご心配をかけないように。
体のほうは大丈夫ですから、もうお帰りになってけっこうですよ」
病院を出ると、真っ暗だった。空が曇っていて、星も見えない。
「ごめん、心配かけて」
僕の言葉に、優希は何も言わない。黙って下を向いたまま、歩いている。
「怒ってる?」
優希が立ち止まった。僕も立ち止まる。
優希は僕のほうに向き直ると、僕の胸におでこを押し付けた。肩が震えている。泣いているのだ。
そっと腕を回して、優希を抱きしめると、うっうっという嗚咽と鼻をすする音が聞こえてくる。
優希が僕の背中に手を回し、力を込める。優希の必死さが伝わってきて、僕も腕の力を強めた。
優希の髪から、シャンプーと汗のにおいがする。
「すまない」という父の言葉を思い出した。
父はもしかして、「愛している」と伝えたかったのかもしれない。
「愛しているから、離れて行かないでほしい」そう言いたかったのではないか。
もしも父が、そう母に伝えていたら、何かが変わっていたんだろうか。
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