第19話 チョコレートパフェ
「中嶋さん、もうそろそろいいよ」
中嶋は最終日まで根を詰めて働いていて、定時を過ぎてもなかなか帰ろうとしない。
そういうこともあるかもしれないと思って、優希には今日は遅くなるかもと言ってあった。
スクリーンを何時間も集中して見ていた中嶋は、顔を上げて数回まばたきをした。
「……あ、ごめんなさい。これだけ終わらせときたいので。もう最後ですし」
「僕がやっとくから」
中嶋の眉間にシワがよる。
「大野課長は、先に帰られてください。私も、これだけやったら帰りますから」
最後の最後まで、中嶋は不機嫌そうだ。もうこの顔を見ることもないのだと思うと、寂しい気もする。
「そんなわけにはいかないよ。今日で最後なんだし」
例によって、中嶋がまた口をモゴモゴさせた。壁時計をチラリと見る。七時を回ったところだ。
「じゃあ、それだけやったら帰ってね。僕ももう少し残業してくから」
「……すみません」
中嶋が作業に戻った。キーを打つ音が、追い立てられるように早い。みんな帰ってしまっていて、中嶋の鬼気迫るようなタイピングの音と、僕のパソコンのカタカタという音が、静かなオフィスに響いた。
「終わりました。遅くなってすみません」
中嶋が作業再開して三十分もしたころ、中嶋が僕のデスクまで来てペコリと頭を下げた。
「引き継ぎの書類は全部、同じフォルダに保存してあります。フォルダのリンクをさっきメールしました」
「ありがとう。助かる。それから、これ」
僕が封筒を差し出すと、中嶋が首をかしげた。
「今まで、どうもありがとう」
「え、あ! ありがとうございます」
封筒を持った中嶋が腰を折る。
「大したものじゃないんだよ。デパートのギフトカードなんだけど。何をあげていいかわからなかったから」
中嶋は、感極まった顔で、目を見開いている。目が潤んでいるように見えて、びっくりしてしまう。そこまで感動するようなことでもないと思うが。
「あの……あの、ごめんなさい」
中嶋が謝るので、今度は僕のほうが首をかしげた。
「神崎さんが帰ってくるまでは、続けようと思ってたんですけど。こんなタイミングで辞めて、ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」
中嶋が深々と頭を下げる。
「え? 神崎さんが辞めるから辞めるんじゃないの?」
中嶋の言葉に衝撃を受けて、つい本音が漏れてしまった。
「は? え? どうして……」
中嶋は僕の言葉によほど面食らったようで、口を開けたまま僕を凝視した。
「どうしてそうなるんですか?」
「いや、だって。神崎さんがいなくなってから、職場にいるのが嫌そうだったから。僕が上司なのが嫌なのかと思ってた」
こうやって口に出してみると、僕の言い分はあまりにも子どもじみていて、僕の顔がにわかに熱を持った。
「いえ、あの。私、顔がキツいからたまに誤解されるんですけど。大野課長が嫌だとか、そういうふうに思ったことはないです」
「……はあ。そっか」
バカだなぁ、僕は。優希がいつも言う通り、まったく見当外れなことでグジグジと頭を悩ませていたわけだ。
「あの……。本当に何もご存じないんですか?」
中嶋が、とても信じられないといった顔で聞いてくる。
「ご存じって、なにが?」
中嶋は、社内をキョロキョロと見渡して、他に誰もいないのを確認すると、「まあ、もういっか」と誰ともなく言った。
「不倫してたんです。会社の人と」
面白くもなさそうな顔で、中嶋は淡々と言った。
「その人、会社の他の女の子とも付き合ってたみたいで。その子に私のことがバレて、会社中に言いふらされたんです。悔しいから辞めるもんかと思ってたんですけど、もう、疲れちゃって」
突然の告白に頭が真っ白になり、言うべき言葉が見つからない。寝耳に水とはこのことだ。
「会社で知らない人はいないと思ってました」
中嶋が、呆れ顔で少し笑った。中嶋の笑った顔を見るのは久しぶりだ。
みんな、いろいろあるんだな、と当たり前のことを思う。
中嶋が辞める理由が僕だと思っていたなんて、幼稚で傲慢な発想だったなと恥ずかしくなる。世界の中心は僕ではないのに。
「神崎さんに言われてたんですよ。大野課長は、全部ひとりで抱え込むタイプだから、サポートしてくれって」
「え?」
不倫の話から僕の話になって、さらに混乱してしまう。
言おうか言うまいか迷うように、中嶋が口の中で言葉を咀嚼している。この人も、言葉が得意ではないのかもしれない。言いたいことがうまく言えなくて、いろんな気持ちを飲み込んできたのだろう。案外、誰だってそうなのかもしれないが。
「あの、最後だから生意気言いますけど、大野課長はもっと文句言っていいと思います。
神崎さんの産休代理、人事に強く言ってたら雇ってもらえたんじゃないんですか」
神崎の産休代理。そんなことまで考えてくれていたのか。僕の知らないところで、気をつかわせていたらしい。
「ああ。いや、その。それは」
産休代理の件を、うやむやにさせたのは僕だ。神崎がいない九ヶ月の間、知らない人を採用して教育するのが億劫で、少しの間だから自分でやってしまえばいいと安易に考えてしまったのだ。
「いつも仕事を持ち帰っていらっしゃったの、知ってます」
中嶋は、僕ではなく僕のデスクの端のほうを見ている。面と向かっては言いにくいのだろう。
「えっとさ、それは、僕の責任なんだよ。新しい人を入れるのが面倒くさくて、神崎さんの仕事をズルズル引き受けちゃったの。今になって、後悔……というか、反省してるんだけどね」
自嘲気味に笑ったら、中嶋が意外そうな顔をした。もしかしたら、僕が中嶋の前で笑ったのも、ものすごく久しぶりなのかもしれない。
「あの、大野課長は、もっと、人に頼っていいと思います」
小さな声で中嶋が言った。
「あの。私も、その。もうちょっと頼ってほしかったんですよ」
中嶋の顔がほんのり赤くなったので、僕もなんだか照れてしまった。
最終日になって、やっと中嶋とちゃんと話せた気がする。
「帰ろっか」
「はい」
中嶋と二人でオフィスを出た。
生ぬるい風が吹き、春というよりも、もう初夏のような夜だ。中嶋が入社したときのことや、神崎と三人で仕事していたときのことなど、いろいろな記憶が胸中を駆けめぐった。
人生は、出会って別れての繰り返しだな、と演歌の歌詞のようなことをしみじみ思う。
「お疲れさまでした」
最後に中嶋が深く一礼した。
そうして去ろうとした中嶋に向かって、僕は言った。
「あのさ。もしよかったら、一つだけ頼みがあるんだけど」
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