第20話 チョコレートパフェ
家に帰ってリビングのドアを開けたら、テレビの音が聞こえてきた。子ども向け番組ではなく、優希が好きな韓流ドラマだ。さくらはもう寝てしまったらしい。
「おかえり。遅かったね」
テレビの前でストレッチをしながら、優希が顔だけ僕のほうへ向けた。
「ご飯は? 食べてきた?」
「いや、まだだけど」
「焼きそば、あるよ。温めよっか」
ストレッチをやめて立ち上がろうとする優希を僕は制した。
「いや、いい。それよりもさ」
仕事用のカバンをソファに無造作に置くと、小さな紙袋を手に取った。取っ手のところが光沢のあるリボンでできている、高級感のある紙袋だ。
「はい、これ」
絨毯の上に座っている優希に手渡すと、袋を見ただけで目と口が全開になった。
「え〜? なに? なんで?」
優希の顔がすっかり上気している。
中嶋の話では、女性に人気のあるブランドらしい。僕はそういうことがさっぱりわからないから、やはり中嶋に相談してよかったと思った。
「開けてみてよ」
「う、うん」
まだ疑問の残る顔のまま、優希が紙袋から小さな箱を取り出した。
「ちょっと待って。ちゃんと座ってから開ける」
テレビを消していそいそとソファに座り、背筋をピンと伸ばす優希の横に、僕も座った。
優希がリボンをほどき、小さな箱をうやうやしく開ける。中に入った物を見て、
「うわあ」と小さな歓声を上げた。
「え、なんか。すごい可愛らしいっていうか。ちょっと若すぎない?」
ローズゴールドのチェーンを小箱から取り出し、ペンダントトップを目の前にかざしながら優希が言う。
「え、あ。ごめん。レシート取ってあるから、交換できると思うけど」
僕が選んだのは、ピンク色のガーネットとローズゴールドでできた、桜がモチーフのネックレスだ。
「大野課長の奥様って、そんなイメージなんですか。意外ですね」
中嶋が、そう言ってニヤニヤ笑っていたのを思い出す。
あのピクニックの日に、桜の花びらが優希の鎖骨にくっついていたのを僕はずっと覚えていて、このネックレスを見たときに、これだ、と思ってしまったのだ。
「ううん、気に入らないとかいうんじゃないの。かわいい。好き。いやもう、私も年だからさ。こういうキュートなの、似合わないかなと思っちゃって」
そんなことないよ。似合うよ。そういうセリフは、どうも恥ずかしくて言えない。
「付けてみてよ」
僕が言うと、優希は「え〜、今? 部屋着ですっぴんなんだけど」と口だけで抵抗しながら、ネックレスを付けてみせた。
「いいじゃん」
僕が優希を見つめると、優希はふふ、と笑いながら目を伏せた。
「どうしたの、急に?」
「先週、倒れて心配させたから」
「え? それで? っていうか、もう大丈夫なの? あれから」
僕は、その質問には答えずに、優希に向き直る。
「ありがとう」
優希の目を見て、真剣に伝えた。あれからずっと、言わないといけないと思っていた。
「さくらのことも、家のことも、僕のことも。いつも、面倒をみてくれてありがとう」
「な、なに? 改まって」
優希のほおが赤く染まっている。
おお、これは恥ずかしいぞ。いやでも、もう一息。
「僕の妻でいてくれて、ありがとう」
僕がそう言うと、さっきまでヘラヘラと照れ笑いをしていた優希の顔が、急に真顔になった。両眉が下がり、目はパッチリと開いたまま、口がきゅっと閉じた。
「これからも、僕の妻でいてくれる?」
そう優希に聞いた僕の声は、かすれていた。自分でも、こんなふうに感情が揺れてしまうとは予想していなかった。涙が出そうになるのを、グッとこらえる。
「……あたりまえじゃない」
そう言った優希の声もかすれていた。
今にも泣きそうな顔をした優希は、まるで小さな女の子のように見える。
思い出した。僕がプロポーズをしたときに、優希はこんな顔になった。優希の無防備な顔を見て、僕は心底ほっとしたのだ。
彼女も、怖いのだと。
僕が優希に離れられるのが怖くて仕方がないのと同じくらい、優希だって、僕にそばにいてほしいのだと。
優希に潤んだ目で見つめられて、僕は胸がいっぱいになって身震いした。優希の柔らかそうなくちびるに、僕の口を近づける。
そのときだ。
「ママ〜」
子ども部屋からさくらの声がして、僕と優希はピタリと固まった。
「ママ〜!」
さらに大きな声がして、僕らはしぶしぶ体を起こした。
「ママ!」
「はいはーい」
優希がペタペタとスリッパの音をさせて子ども部屋へ向かう。
さくらの、ヒックヒックという泣き声が聞こえる。怖い夢でも見たんだろうか。優希が歌を歌って慰めている。
「腹がへったな」
キッチンへ行って、焼きそばを電子レンジで温める。
世界で一番大事な女二人の声を、キッチンの壁越しに聞きながら、妻の作った焼きそばを食べた。
焼きそばを食べ終わると甘いものが欲しくなり、『まどか』のチョコレートパフェを思い出した。
今度チョコレートパフェを食べるときは、さくらと優希も一緒に連れて行こう。
さくらが半分食べ残したパフェを食べる自分を想像して、少し笑った。
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