肉じゃが

第21話 肉じゃが

 都心のマンションで、隣人同士が仲良くなるなんて、滅多にないと思う。むしろ、隣の人の名前も知らない人のほうが多いかもしれない。


 しかし夫の哲夫は、隣に住んでいる双子の赤ちゃんに夢中である。「我が子のように愛している」と言っても過言ではない。今の彼は、双子のためなら死ねる気がする。


 双子ちゃんが生後四ヶ月のころ、そろってインフルエンザにかかってしまった時には、「代われるものなら代わってあげたい」と暗い顔でつぶやいていたし、熱が下がった暁には、自分が命拾いしたみたいな勢いで「よかった」と安心していた。


 そして今日も、「ただいま」と自宅のドアを開けても哲夫はいない。お隣の舞さんのマンションにいて、双子の赤ちゃんの面倒をみているのに違いない。


 仕事用のバッグを上がり框にポイと投げると、さっき開けたばかりのドアに鍵をかけ、舞さんの部屋へ向かう。


 チャイムは鳴らさない。双子ちゃんが寝ていることもあるからだ。ドアノブに手をかけると、鍵がかかっておらずスルリと回った。音を立てないようにして静かに部屋へ入る。玄関先に哲夫の靴が揃えて置いてあるが、舞さんの靴はない。


「おじゃましまーす」と自分にしか聞こえない小声を出しながら中へ入った。

 双子ちゃんはバウンサーに大人しく座ってミルクを飲んでいる。哲夫は二つのバウンサーの真ん中にあぐらをかき、両手を駆使して二つの哺乳瓶を器用に支えていた。


「おかえり」

 私に気づいた哲夫が顔を上げた。哲夫の部屋はここでなく隣なのだが、「ただいま」と応えながら、哺乳瓶の一つを哲夫の右手から受け取る。


「舞さんどこ?」

「千葉の物件」

「トラブル?」

「洗濯機が壊れたってさ」

「それで哲夫、また舞さんに双子の面倒を押し付けられたの?」

 冗談めかして言うと、哲夫は嬉しそうに笑った。


 双子ちゃんの名前はつづみちゃんとことちゃんと言う。一卵性だけど、今では私でも見分けがつく。哲夫は鼓ちゃん、私は琴ちゃんがミルクを飲むのを手伝っている。二人とも丸々と肥えて愛らしいが、鼓ちゃんはわんぱくで、琴ちゃんはおっとりさんだ。


 哲夫はミルクを飲み終えた鼓ちゃんを抱っこすると、背中をトントンと叩く。鼓ちゃんがゲフーっと盛大なゲップを出し、哲夫はお気に入りのステレオの調子でも確かめたように、満足そうにうなずいた。


 一方、琴ちゃんは哺乳瓶の半分もミルクを飲んでおらず、ミルクを飲んでは、宙を見てむにゃむにゃと赤ちゃん語を話す、というのを繰り返している。


「ただいま〜。遅くなりました」

 玄関からソプラノの美声が聞こえてきたと思ったら、舞さんがパタパタと部屋へ入ってきた。


美波みなみさんも来てくださってたんですか!」

 舞さんが私を見るなりパッと目を輝かせるので、推しのアイドルから声をかけられたような高揚感を覚えてしまう。


 舞さんは、小柄でロリ顔でアニメ声という、オタクの妄想を神がうっかり具現化したもうたような容姿と声をしており、加えて天性の人たらしである。


「哲夫さん、本当に助かりました。ありがとうございます!」

 舞さんがキラキラ声でお礼を言い、哲夫が照れている。


 舞さんが一人でお隣に引っ越してきた時、彼女はすでに妊婦さんだった。あれから一年、生まれてきた双子が生後六ヶ月になろうとしている。


「鼓ちゃんも琴ちゃんも、風呂に入れた。あと、鼓ちゃんはさっき寝る前のミルク飲み終えたよ」

 哲夫がそう報告するや、

「あ、じゃあもう寝かしつけちゃいましょうか」

 と舞さんが応える。


「琴ちゃんが、まだ飲み終わってないけど」

 私が琴ちゃんの哺乳瓶を指さすと、舞さんはバウンサーからひょいと琴ちゃんを抱き上げた。


「琴ちゃん、あとちょっと、がんばろう!」

 舞さんが哺乳瓶を琴ちゃんの口に入れ直し、かわいらしい声で激励すると、琴ちゃんはさっきとは打って変わって、すごいスピードでミルクを飲み始め、あっという間に飲み干してしまった。


 舞さんの声には不思議な力があり、あの美声で何か頼まれると、誰もが「やってやろう」という気になるんである。それは、赤ちゃんでも同じらしい。


 ンガっと変なゲップを出した琴ちゃんを抱え、舞さんは「失礼します」と一つしかない寝室へ消えて行き、哲夫が琴ちゃんを抱えて舞さんに続いた。


 哲夫と舞さんが双子ちゃんを同時に寝かしつけるのを待つ間、私は舞さん宅の居間やキッチンを片付けながら待った。赤ちゃんのお世話は、基本的に哲夫に丸投げしている。オムツ代えも、お風呂も、寝かしつけも、哲夫のほうが私より圧倒的にうまい。


 二十分ほど経ち、二人がニコニコしながら寝室から出てきた。いや、デレデレと言ったほうが正しい。二人とも、双子ちゃんがかわいくて仕方がないのだ。


 哲夫は男性にしては身長が低いほうだが、うんと背が低い舞さんと並ぶとバランスが良い。私は三十五歳。哲夫は三つ下の三十二歳。舞さんはさらに三つ下の二十九歳。年齢的にも、哲夫と舞さんのほうがお似合いだと感じてしまうのは、古風な考えだろうか。


 子どもが生まれたばかりの若夫婦にしか見えない二人の笑顔を見ていると、「この二人、早くくっついちゃえばいいのに」とラブコメの視聴者のようにジレジレする。


 私には、他人にはなかなか理解してもらえなさそうな願望がある。夫の哲夫とシングルマザーの舞さんに、一緒になってほしいのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る