第22話 肉じゃが

「いつも本当にお世話になってしまって。ありがとうございます」

 舞さんが深々と頭を下げる。


 私と哲夫が好きでやってることだから、毎回そんなに感謝されると、かえってムズムズするのだが、毎度のことなので「いいってことよ」と適当に流す。


 舞さんの部屋を出ると、「まだ夕飯作ってない」と哲夫がボソッと言った。

「ふふ。双子を押し付けられちゃったからね」

「『まどか』ろっか」

「私も、そう言おうと思ってた」


 食堂『まどか』は、私たちが住んでいるマンションから徒歩で十五分ほどのところにある。外へ出ると、日が落ちてだいぶ涼しくなった夜に、セミがジージーとひっきりなしに鳴いていた。哲夫が手を差し出してきたので、手をつないで歩いた。


 食堂『まどか』の肉じゃがは、ジャガイモがゴロンと大きい。哲夫はホクホクとおいしそうなイモにかじりつき、ほっほっほ、と口から熱を逃している。

「私、肉じゃがは哲夫が作ったやつのが好きだな」


 うどんをツルツルと口に入れながらそう言うと、哲夫は信じられないという顔をした。『まどか』の肉じゃがは豚バラで、哲夫の肉じゃがは牛ミンチだ。実家も牛ミンチだったので、豚バラの肉じゃがは私に言わせると邪道である。


「今の発言は、この肉じゃがに失礼だ」

 哲夫が鼻をふくらませた。

「そんなにおいしいの?」

 哲夫が肉じゃがを箸で一口大に割り、私の口元へ持って来たので、ふうふうと息を吹きかけてから食べた。


 出汁の効いた甘辛いしょうゆ味がシミシミで、イモの食感が完璧である。それでいて、どこか隙があるというか、目分量とカンで作ったような適当さがある。


「うーむ」と私がうなると

「な?」と哲夫が得意顔になった。

「『まどか』ってさ、こっちの予想を裏切ってくるよねぇ。実家の肉じゃがと違うのに、確実にオフクロの味がする」

「美波のうどんは?」

「優しい味。いい意味でがんばってない」


 哲夫はうどんを勝手に自分の近くへ引き寄せると、一本だけちゅるちゅると食した。

「がんばってないな、いい意味で」

「でしょ」

「半分食べてもいい?」

「うん。半分こしよ。私も肉じゃがもっと食べたいし」


 私たちは、とても仲のいい夫婦だと思う。哲夫が選んだ肉じゃが定食の小鉢に箸を付けながら、仕事のストレスがゆるゆると溶け出すのを感じる。哲夫と同じ空間にいると心身が和む。


 哲夫は近所に住んでいた男の子で、物心がついたころには、すでに私の生活の一部だった。三歳年下というのに加え、哲夫は体が小さくて性格が素直だったので、私は哲夫のことをペットの犬のようにかわいがっていた。


 不思議なことに、高校生になっても、成人したあとも、私と哲夫は仲が良いままだった。同じバンドを好きになり、一緒にプロレスにハマり、漫画や映画の好みもほぼ一致している。何も約束しなくても、私たち二人は気がつくと一緒の空間にいた。でも、恋人同士という雰囲気では決してなかった。


 恋愛に疎かった私は、二十五歳を過ぎてもヴァージンで、それどころか彼氏居ない歴=年齢な非モテ民であった。哲夫のほうは、何回か彼女ができたことがあったから、私はともかく、哲夫はいつかいい人を見つけて結婚するんだろうなと思っていた。


 二十七歳のときに、親戚の中で有名なお見合いおばさんが釣書を持ってきた。写真をみる限り、髪型がダサくてぽっちゃりした男性だったけど、優しそうな目をしていた。お見合いでもしないと私には一生縁がなかろうと、会ってみることにした。


 会ってみたら、案外トークのうまい人で(髪型も写真ほどダサくなかった)、彼のおしゃべりを楽しく聞いて暮らすのも悪くないなと思われた。驚くべきことに、先方は私のことをとても気に入ってくださり、一気に結婚しようという流れになった。あのとき、私の何が彼の琴線に触れたのか、未だに謎なのだけれど。


「お見合いで会った人と結婚することになった」と哲夫に報告したら、哲夫からその場でプロポーズされた。あれほど仰天したことはない。二人の男性から同時に求婚されるなんてことが、完全な非モテ民の私に起こったりするのだから、人生ってわからない。


 哲夫と結婚してからもうすぐ八年になるが、おそらく世間では珍しいくらい夫婦円満でやってきた。


「あのさぁ」

 おいしそうにうどんを食べている哲夫に声をかける。


 言ってしまおうか。やっぱり言わないでおこうか。言ってしまったら、哲夫はどんな反応をするだろうか。いやでも、いつか言わないといけないのなら、今言ってしまったほうがいいのではないか。


 私が「あのさぁ」のあとをなかなか言わないので、哲夫がうどんから視線をあげて眉間にシワをよせた。


「なに」

「いやね。うんとさ」

「なんだよ」


 哲夫が心配顔になった。眉尻の下がった哲夫はビーグル犬みたいに見える。相変わらずかわいいなあと思ってしまう。彼を傷付けるのは本意ではない。


「哲夫、雰囲気がさ、お父さんになってきたよね」

 ずっと言おうとしていたこととは、違う言葉が飛び出てきてしまったけど、これも、最近しみじみ思っていたことではある。


「そうかな。老けた?」

 哲夫がショックで目を丸くしている。


「うーん……。老けたとか、そういうんじゃないけど。あ、でも、確かに若さは目減りしたかも。落ち着いたっていうか。顔から父親っぽさがにじみでてるっていうかさ」


 哲夫は眉根を寄せてアゴを右手でなでた。そういう仕草が、もう父親然としている。


 母親は、九ヶ月間という妊娠期間を経て、だんだんと母親の顔になってくる気がするけど、父親は妊娠しないから、子育てをしてる間に父親の顔になってくるのかもしれない。それが我が子でなかろうとも。


 すっかり父親の顔になった哲夫は、なかなか悪くない。むしろ、堂に入って生き生きしている。哲夫は、お父さんになるべき人だ。


「あのさ。……離婚しない?」

 ここ数ヶ月の間ずっと言おうと思っていたことが、ついに言葉になって出て行ってしまった。『離婚』という言葉が、自分で言ったことなのに外国語のように聞こえる。私の伝えたいことと、哲夫に伝わってしまうことの間には大きな乖離がある気がする。そのことが彼を傷つけてしまうのが怖くて、胸がジクジクした。


 哲夫の箸から、うどんがつるんと抜けて、どんぶりの汁がパシャンとはねた。

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