チョコレートパフェ

第11話 チョコレートパフェ

 中嶋が辞表を出した。


 入社当時は文句の多い人で、すぐに辞めるかもしれないと思っていたのだが、地頭が良くて飲み込みが速く、当初の予想を裏切って頼れる社員に育ってくれた。それなりにホワイトな会社で、家庭を持っても比較的続けやすい仕事だから、これからもずっと勤めてくれるだろうと思い込んでいた。


「退職の理由……、聞いてもいいかな」

 恐る恐る聞いてみた。渡された辞表には『一身上の都合により』としか書いていない。


 結婚だとか、介護だとか、個人的な理由で辞めるのなら仕方がないが、労働時間や給料など、こちらの条件が理由で辞めるのであれば、多少は調整できる。中嶋のように優秀な人材に辞められて、新しく人を雇い教育し直すコストを考えれば、会社側がなにかしら融通してくれる可能性は高い。


「個人的な理由なので」

 少し怒ったような顔で彼女は答えた。僕と話す時の彼女は、いつもこうだった。仕事さえしてくれれば、部下が僕にそっけなくてもかまわない。僕だって愛想がいいほうではない。


「給与や労働時間なら、少しは調整できるかもだけど」

 僕の言葉に、中嶋の眉間のシワがさらに濃くなった。それから、ハッと顔を上げた。僕の言葉の意図を理解するのに、少し時間がかかったらしい。


「ああ、そういう……ことじゃないです。あの、私事なので」

 個人的な理由で中嶋が話したくないのであれば、これ以上聞くこともできない。彼女のプライバシーだ。


「そうか。じゃあ、人事のほうに連絡するから、そちらの指示に従ってください。

 今まで、ありがとう。退職までの間、もう少しですが、よろしくお願いします」


 僕がそう言うと、中嶋は何か言いたそうにモゴモゴと口を動かした。数秒間、宙を見て、諦めたような顔で「はあ」と言葉ともため息ともつかない音を出す。


 妻の優希ゆうきに言わせると、僕は空気が読めなくて、徹底的に言葉が足りないらしい。何か、もっと労いの言葉をかけてやるべきだったのだろうか。中嶋の少し失望したような顔を見て考える。しかし、何を言っても不適切な気がする。


「残念で仕方がない。君に辞められると困る」なんて正直に言ったら、中嶋には迷惑なだけだろう。


 中嶋に軽く会釈をして、渡された辞表を持って人事部へと向かう。コツコツコツ、と自分の足音を数歩ぶん聞いたところで、背後から声がした。


「大野課長」

 振り向くと、中嶋がいつもの仏頂面で僕を見ている。

「神崎さんって、もう戻って来ないんですよね」


 神崎は僕の同期で、社内SEとしてずっと一緒に働いてきた仲間だったが、去年の中頃に産休に入った。来月から復帰する予定だったのだが、旦那さんの転勤が決まり、そのまま退職することにしたらしい。そう、一ヶ月前に知らされた。


 神崎は技術的にも優秀な人だったが、何より人当たりがよかった。従業員の誰にも好かれていたし、新人教育もうまかったので、中嶋が今まで続いたのも、神崎が辛抱強くなだめたりすかしたりしながら、鍛えてくれたことが大きい。


「ああ。残念だけど。旦那さんの転勤について行くことに決めたそうだ。人事から、報告があったと思うけど」


 中嶋はまた口をモゴモゴと動かし、それから口を一文字にギュッと結ぶと、一礼して別のフロアへと去って行った。


 去って行く彼女の痩せた背中を見ながら、ああそうか、とストンと合点がいった。


 中嶋は、神崎が辞めるから辞めるのだ。

 僕が上司ではダメだったのだ。



「チョコレートパフェです」

 図体のデカい男性が、苺で可愛らしく飾られたデザートを僕の目の前に置いた。


 え? と一瞬混乱して、(たのんでないんですけど)と言おうと顔を上げたところで「ナベさん、それ一番テーブルです!」と若い女性の声が厨房から聞こえてきた。


「大変失礼しました」

 ナベさんと呼ばれたウェイターは、軽く一礼してデザートをお盆に乗せ直し、無駄のない動きで奥のテーブルへ向かった。


 パフェを運んだあと、すぐに僕のもとへ戻ってきて「ご注文はお決まりでしょうか」と聞く。


 席についてから少しぼーっとしていたので、まだメニューもまともに見ていなかったが、さっき目の前に置かれたチョコレートパフェがどうも気になる。


「僕もチョコレートパフェで」

 ウェイターは僕の注文に満足そうに頷くと、目を細めて「おすすめです」と言った。

(あなたの選択は、100パーセント正解です)と僕自身を肯定してくれるような、感じの良い言いかただった。


 最寄駅と僕の家のちょうど中間地点に、この食堂『まどか』はある。前に一度、妻の優希と娘のさくらと一緒に来たことがあるが、ひとりで来るのは初めてだ。


 無性に甘い物が食べたかった。中嶋が辞表を出したのが、案外こたえているらしい。知らないうちに眉間にシワが寄っている。家に帰ったとき、優希やさくらに不機嫌な顔を見せたくない。二人とも僕の帰りを待っているのはわかっているが、帰宅する前に少しだけ自分ひとりになれる時間が欲しかった。


 暗くなった窓に写った自分の姿が、父にあまりにも似ていてドキッとする。もうすぐ一周忌になる。進行の早い癌が見つかり、六十五歳の若さであっという間に逝った。


 僕と同じで甘党だった父は、ヒョロヒョロと痩せていたが、腹のまわりだけ肉付きがよかった。物静かな優しい人で、声を荒げているところを、文字通り死ぬまで見たことがない。父のことは好きだったが、いつも困ったように笑っている顔が弱々しく思えて、こうはなりたくないとも思っていた。


「お待たせしました」

 注文して五分もしないうちに、さっきと同じ、苺の乗ったデザートがコトリと置かれた。昔ながらの、気取ったところのないチョコレートパフェだ。背の高いパフェ用のグラスに、バニラとチョコのアイスクリームが交互に入れてある。コーンフレークとバナナのようなものも横から見える。上にはホイップクリームと苺が乗っていて、チョコシロップがたっぷりかけてあった。


 一口食べると、懐かしい甘さで口がいっぱいになる。最近は、甘さ控えめの上品なデザートも多いが、チョコレートパフェは、このくらいガツンと甘いほうがいい。


 父と面会のときは、いつもチョコレートパフェを食べた。

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