第10話 煮込みうどん
「ゴッドマザー?」
なんか聞いたことあるような、ないような。
「うーんとね、なんかね、キリスト教徒がやるらしいんだよ。洗礼の時に立ち会う人でね。親になんかあった時に、代わりに保護者になる約束をするんだって。だから、第二の母みたいな役割なの」
「へえ〜。って、でもさ、美由紀ってキリスト教徒じゃなかったよね?」
「うん。ケンさんも私も実家は仏教……っていうか、ほぼ無宗教?」
「じゃあ、なれないじゃん、ゴッドマザー」
「いや、そこは、なんつーか、適当で」
「はあ……?」
「つまりさ、
ほら、木華は今はまだ小さいけど、もっと大きくなったときに、親に言えない悩みができたりするかもしれないじゃない。そういう時に助けになってくれる、親じゃない大人がいてほしいんだ。
親に隠し事してもいいんだって、大人は親だけじゃないんだって、知っててほしいの」
「ふーん。……なんかそれ、いいかも」
美由紀は、妊娠する前から育児書を読み漁っていた。ゴッドマザーのことも、「大人は親だけじゃないって知っててほしい」とか、そういうことも、山のような育児書の中に書いてあったのかもしれない。この人は、本当にいいお母さんになるのだろうな、と思う。美由紀は、心からやりたいと思ったことは必ずやりとげる人だから。
「そう? 迷惑じゃない?」
「迷惑じゃないよ。うれしい」
美由紀は、えへへ、と照れ笑いをした。
「私が木華ちゃんのゴッドマザーになるんだったらさ、セレモニーみたいなのをした方がいいのかな、一応」
「いいね。今度、鍋パーティーしようよ。ケンさんも一緒に」
いや、それはただの宴会だから。まあ、いっか。
「いいね。じゃあ、楽しみにしてるね」
美由紀の家を後にして家路につく。さっきはきれいな夕焼けが見えたのに、また雨が降っていた。しかたなくビニール傘を開くと、歪んでいた骨がポキンと折れた。北風がビュービュー吹いている。寒い。私の部屋もきっと寒いだろう。あの部屋に帰るのかと思うと、ものすごい寂しさが襲ってきた。
美由紀の家に行くと、猛烈に嫉妬してしまうのじゃないか。美由紀と別れた後は、もっと寂しくなるんじゃないか。そう心配していたけど、その通りになった。
でも、美由紀に会って、木華ちゃんとも会えて、よかったな、幸せだなと思う。
結婚して子どもを生むことだけが女の幸せだなんて、古くさいことは思っていないし、子どもがどうしても欲しいわけじゃない。四十代、五十代になっても結婚してない素敵な女性ならたくさんいる。
ただ、このまま歳をとり、子どもが生めない体になったときに、私は本当に後悔しないんだろうか。そんなことを考え始めるとたまらなく不安になる。
木華ちゃんの二重アゴや、ちぎりパンのような腕や、雄々しい眉毛を思い出す。
私は木華ちゃんのゴッドマザーになるのだ。
ふふ、と笑うと、白い息が夜道に一瞬浮かびあがり、すぐに消えていった。
*
翌日の月曜日、店が休みだったので、駅まで傘とプレゼントの忘れ物を取りに行った。
「素敵な傘ね」
傘を受け取るときに言われて、驚いて顔をあげたら、年配の女性がニコニコしている。
「それ、
「あ、そうです。よくご存じで。私は、この傘を買うときに初めて知ったんですけど」
伊佐文様は伝統的な日本の染織技法だそうだ。
くっきりとした線で描かれた菊の模様に、私は一目惚れした。傘の外側は赤、内側は青で、同じ模様が染め上げられている。伝統的でありながらスタイリッシュで、流行に左右されずに何十年でも愛されそうなデザインだと思った。
「よかったわね、傘が戻って来て。こんなにいい傘だもの。きっとあなたの元に帰りたかったのよ」
受付の女性は冗談っぽくそう言って笑った。
「あはは。ありがとうございます。私も、傘が戻って来てうれしいです。お世話になりました」
深々と頭を下げ、傘とプレゼントの入った紙袋を持って駅を出た。
小春日和で、風は寒いけど日差しが暖かい。
傘の持ち手は楓の木でできていて、握ると手に柔らかく馴染んだ。
『ただいま』と傘に言われた気がして、『おかえり』と言う代わりに、持ち手をぎゅっと握りなおす。
よかった。
傘が戻って来てよかった。
戻って来てくれたことが、こんなにうれしいと思えるような傘を買ってよかった。
十年も使っているというのに、布地も軸もまだまだしっかりしているし、壊れたら修理に出せる。この先も長い付き合いになりますように、と祈る気持ちで持ち手を握る力をさらに込めた。
もしこの傘をいつか無くしてしまったら、割と本気で寂しい思いをしそうだなと思う。新しい傘を買うまでは、ああ、あの傘がここにあればいいのに、って感傷的になりそうだ。
でも、三万円を無駄にしたとか、絶対に思わないな。
「無駄だったとか、絶対に思わないな」
声に出して言ってみたら、みぞおちのあたりが熱くなった。それは、私をほんわりと温めてくれるような熱ではなくて、ヒリヒリと胸を焼くような熱だ。
いつかなくなるものを本気で好きになることは、間違ってなんかいない。
そう思うと、メラメラと腹からエネルギーがこみ上げて来て、ははっ、と小さな笑い声になって体から漏れた。
その時、パラパラと雨が降ってきて、びっくりして空を見上げた。遠くの方に小さな雲があるだけで、頭上には青空が広がっている。
狐の嫁入りだ。
すぐに止みそうな弱々しい雨に向かって、勢いよく傘を広げた。鮮やかな菊の模様が視界に広がる。青い空に挑んでいくような力強い曲線を、目を細めて眺めた。
「きれいね」
広げた傘に向かって短い賛辞の言葉をかけると、前を向いて歩き始めた。街路樹の葉っぱに付いた雨のしずくが、キラキラとお日様の光を反射していた。
**「煮込みうどん」のお話は、これにて完結です。最後まで読んでくださって、ありがとうございました。次は、既婚男性が主人公の物語です**
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