第9話 煮込みうどん

「え? なに? 泣いてんの?」

 美由紀が鼻水をずずっとすすり、私は慌ててティッシュを箱ごと渡した。


「……ごめんね。ほんと、ごめん……」

 美由紀は、ティッシュで涙と鼻水を吹きながら下を向いて言った。


千遥ちはるかけるくんと別れてから、すごく……お、落ち込んで……。わ、私が余計なこと言ったからだったって、し、知らなくて」

 絞り出すように言うと、ひっく、としゃくりあげる。


 美由紀がすごいなと思うのは、こういう時だ。好意はストレートに伝えるし、悪かったと思ったらすぐに謝る。美由紀の素直さは、人間の美徳の中でもかなり上位に入ると思う。


「私こそ、ごめん。意地悪なこと言って」

 私がそう言うと、美由紀がぶんぶんと首を横にふった。


「と……取り返しのつかないことして、本当に、ごめん。私、もう……どうしたらいいか」

 美由紀のひっく、ひっく、という声が大きくなる。


「違うの。美由紀のせいじゃない。翔くんとは、いつか別れることになるって、わかってたから」

 美由紀が、濡れた目を私に向けた。鼻が赤くなっている。


「うまくいかない時は、どうやってもうまくいかないよ。美由紀のせいじゃない。ごめんね、変なこと言って」


 今私が美由紀に言っていることは、本当に本当に本心だろうか、と自問自答する。そして、やはり本当のことだと納得できた。もしかしたら、今やっと納得したのかもしれない。


 本当は、別れるずっと前から、翔くんの気持ちが離れていっているのに気づいていた。私とずっと一緒にいる将来なんて、ちっとも望んでいなかった翔くんを、すがるように引きとめ続けていた自分のことが、嫌でたまらなかった。


 半年間、膿のように溜めてきた美由紀への小さな恨みは、現実を受け入れられなかった、自分の弱さだったのだと気づく。なにをやっても翔くんが戻って来ないのを、誰かのせいにしたかったんだ。


 美由紀は、しゃっくりを押さえつけるように胸に手を当てて、無理やり泣き止むと、今度はしおしおと下を向いた。


「今日ね、ケンさん、同僚の人の送別会があるから、遅くなるの」

 美由紀はテーブルに視線を落としたまま、顔を強張らせている。

「だからね、千遥に来てもらったの」


「えーっと、うん。一人じゃ大変だからでしょ?」

 ケンさんは、子どもが生まれてからというもの、なるべく早く帰宅して木華こはなちゃんをお風呂に入れたり、寝かしつけしたり、積極的に子育てに関わる優秀な旦那さんだということは、美由紀から聞いていた。


「違うの」

 美由紀の目からまた涙がこぼれた。

「わ、私、こんなんだから……。ケ、ケンさんが、ケン、ケンさんに」

 うっ、うっ、と美由紀が嗚咽をもらす。


 うあ〜と木華ちゃんが声を上げた。バウンサーが止まっている。

 慌ててバウンサーを蹴ったら勢いが強すぎて、バウンサーがぶるんぶるん揺れた。ひやっとしたが、木華ちゃんは気に入ったようで、ニコニコしている。


「え? なに? ケンさんが、何かしたの?」

 もしや浮気? あの顔で? といろんな意味で失礼なことを思ったけど、

「ち、ち、違う。……ケンさんは悪くない」と美由紀が即座に否定して胸をなでおろす。


 椅子から立って美由紀のところへ行き、美由紀の肩を抱くと、美由紀がまた、おいおい泣き始めた。

 私は美由紀の髪の毛をそっとなでながら、時々バウンサーを蹴った。


 木華ちゃんはきょとんとしている。

 しばらく泣いてから、美由紀は顔を上げた。

「あのね、恥ずかしいんだけどさ。千遥をケンさんに会わせたくなかったの」


 美由紀が、意を決したように告白したけど、言ってることの意味がよくわからない。

「私、ぶくぶく太っちゃって。髪も着るものもかまってられないし。でも、千遥はいつもきれいだから。……その、なんか、比べられたくない、とか思っちゃって」


「えー!」

 びっくりして声をあげてしまった。まさか、そんなことを思っているなんて想像だにしなかった。


「そんなの、仕方ないじゃん。子どもを産んだばっかりなんだから。身なりに気を使ってる暇があったら寝てたほうがいいでしょう」

「で……でも、でも。きれいにしてるママも、た、たくさんいるんだよ。私が、だらしないから……」

 再度しゃくりあげ始めた美由紀の目から、また一粒涙がこぼれた。


「千遥、鰹節と昆布で出汁をとったでしょ?」

 赤い目で見つめながら、そんなことを言うので面食らった。今度はなんの話だ。


「そうだけど……なんで?」

「私、そんな面倒くさいこと、やらないもの。顆粒だしオンリーの女だもん。私より、千遥のほうが、よっぽどいいお母さんになれるって思う……」

 美由紀がしゅるしゅると小さくしぼんでうな垂れた。まいったな。


「……あ〜。そういえば、顆粒だしで育った子どもは、犯罪に走る確率が高いって、なんかの記事で読んだよ」

「……え? 本当?」

 美由紀がびくっとして目を見開いた。


「んなわけないじゃん。ばーか」

「ちょっ。はあ!? 千遥!」

 美由紀の顔が一瞬で赤くなる。美由紀の顔が青くなったり赤くなったり、あまりにもコロコロ変わるので、吹き出してしまった。


「もう、ばか! 一瞬本気にしたじゃん。こっちは真剣なのに」

 そう言う美由紀もこらえきれないように肩を震わせて、笑い始めた。

「顆粒だしでいいんだって。適当にやんなよ。ママは、元気だったらそれでいいんだから」

「……うん。へへ。うん。ありがと」


 涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔で、美由紀が笑った。私も笑って、笑った勢いで、涙が出た。



 木華ちゃんを二人がかりでなんとか寝かしつけた頃には、外は真っ暗になっていた。毎日これかと思うと、ものすごく大変そうだなぁと月並みな感想を抱く。


「じゃあ、そろそろ帰るね」

 荷物をまとめていると、

「あ、そうだ。あのさ」と美由紀が思い出したように言った。


「木華のゴッドマザーになってくんない?」


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