第32話 肉じゃが

 木曜日の夜、ソファに座ってゲームをやっている哲夫の横に腰をおろした。私が哲夫の肩に頭を乗せても、哲夫は器用にコントローラーを動かし続けている。


「もうすぐ日付変わるよ」

「うん。そろそろ寝る」

 哲夫は画面から目を離さないで言った。暗い部屋で、スクリーンが煌々と光って、哲夫の顔をカラフルに照らしている。


「ねえ、哲夫」

「おう」

「鼓ちゃんと琴ちゃんがさ、哲夫の本当の子どもになる道ってないのかな」


 哲夫の肩がぴくりと動いて、私は乗せていた頭を起こす。哲夫の画面を見る目が冷たく凍り、その場の雰囲気が一変したのがわかった。ゲームの華やかな音楽が場違いに響く。


 ゲームの音楽が変わり、空を飛ぶキャラクターが「最後の一周」だと知らせている。二位だった哲夫が一位になった。哲夫はさっきと同じ姿勢で、コントローラーをカシャカシャと動かす。途中で雷に打たれつつも、哲夫は一位のままゴールした。エンディングの歌が流れ、次のレースへと場面が変わる。


 哲夫が次のレースへ進むボタンを連打したところで、私はコントローラーを奪った。


「私も、舞さんも、哲夫も、なんか間違ってるって思わない?」

 哲夫が私の手からコントローラーを奪い返そうとするので、強く握り直した。プラスチックが手の中できしむ。


 哲夫はコントローラーを諦めると、リモコンでテレビの電源を切った。明るい音楽が消えて部屋が暗くなり、居心地の悪い静けさが広がる。


「舞さんも哲夫も、他の人の気持ちとか、お金とか、ふつうはどうだとか、そういうことばっかり気にして、一番大事なことを見落としてない?」


 哲夫が、私の大事なマグを床に落とした時のような、悲しそうな顔で私を見る。まるで、私をかわいそうだと思っているみたい。なんでだろう。


「哲夫は、双子と一緒にいる時が一番いい顔してるし、舞さんは哲夫といる時が一番かわいいって思う」


 哲夫はギュッと目をつむり、深いため息をついた。

「美波」

 私の名前を呼ぶ哲夫の表情が、スタンドランプのぼんやりとした光の中で、ひどく疲れて見える。


「そういうの、大事なんじゃないの? 何が正しいとか間違ってるとか、結婚とか離婚とか、そういうことごちゃごちゃ考えるよりも、みんな幸せになっていいんじゃないの?」


「美波!」

 哲夫が大きな声を出したので、体がビクッと震えた。哲夫のくせに。私に大きな声なんか出したことないのに。哲夫をにらむ。


「俺が美波を……。俺は、美波が。美波が、好きなんだよ。誰よりも大事にしたいって、ずっと思ってる」

 哲夫の声は低くて擦れていて、体を震わせ顔を歪めて言葉を絞り出す哲夫が、喀血してる人みたいに見える。


 彼を苦しい顔にさせるのはいつも私で、苦しい思いなんてしなくていいのにと思う。哲夫は、もっと自由で幸福になればいいのに。


 私が困った時はいつもそうするように、哲夫は私を抱きしめた。そうされると泣けてきて、涙がほおを伝って、哲夫の胸元に染みになって広がる。苦しいのは哲夫なのに、なぜ私が泣いているんだろう。


「ごちゃごちゃ人の気持ちばっかり考えてんのは、美波のほうじゃないか。美波の気持ちはどうなんだよ」


「哲夫が私を好きだとか、大事にしたいんだとか、そんなこと、わかってるよ」

 哲夫の胸の中で、私のくぐもった声が聞こえる。そんなつもりはないのに、嗚咽が混ざって嫌になってしまう。


「そういうことを、聞いてるんじゃないんだ」


 哲夫は私の体を優しく引き離すと、唇を重ねてきた。反射的に体が硬直する。哲夫は軽く唇を当てただけで、すぐに離れて、仲直りの印みたいに、私の左ほほを右手でなでた。


「俺が美波を、ずっと苦しめてきたんじゃないのか」

 哲夫は犬みたいに透明できれいな目をしている。涙で視界がボヤけても、それだけはよく見える。


「美波、幸せか?」


 長年の喫煙者の肺に、知らないうちにタールが溜まっているように、私の中にも黒くてドロドロしたものが溜まっている。それは、自分の意思では消えなくて、時々それ自身に意思があるみたいにドクドクと脈を打つ。少し吐き出してみても、みんなが嫌な思いをするだけで、ちっともなくならないのだ。


「私は母親になる気がないから、哲夫の子どもが生めないんだよ」

 わかりきっている事実なのに、言葉にするのは初めてで、胸が鈍く痛んだ。


「それは、もういいんだ。そう言っただろ」


「そうやって!」

 にわかに胸のタールが熱く突き上げてきて、叫んだ。

「そうやって、哲夫に許されて生きてくのが嫌なの」


 哲夫が水でもかけられたように目を見開いた。


「病気でもないのに、自分の何が悪いんだろうって、後ろめたい気持ちでいるのも嫌だし、そんなことを気にしないようにするのも、もう嫌なの。私は、そんなに強くなれない」


 自分の中のドロドロしたものが、ぐらぐらと暴れて、体じゅうが痛くて悲鳴を上げている。こらえきれなくて、哲夫の胸を両手でドンと叩いたら、哲夫は私の手を握りしめてくれた。哲夫。哲夫。かわいそうな哲夫。


「哲夫を縛り付けて、不幸にするのが、嫌なの」

「いいよ、美波。もういい」


 哲夫がギュッと私を抱きしめた。暖かい。こんな時でさえ、哲夫といると安心する。痛いときや苦しいとき、哲夫はいつもそばにいてくれた。


「私、もう哲夫の妻でいたくない」


 私の言葉が哲夫を傷つけて、そのことに私は絶望する。今まで二人で必死に繋ぎ止めていたものが、とうとう千切れてしまった。大海に放り出された遭難者のように、私と哲夫はお互いにしがみついた。


 私を苦しめるのも哲夫なら、そこから救ってくれるのも、やっぱり哲夫しかいないのだった。

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