第31話 肉じゃが
土曜日の午後、お菓子を持って舞さん宅にお邪魔するのが、新しいルーティーンとなった。哲夫は明らかに寂しそうで、平日は無闇に凝った料理をしたり、ゲームに明け暮れたりして暇を潰している。
舞さんは、表面上は元の舞さんに戻った。私たちがお邪魔すると心からうれしそうに迎え入れてくれるし、私に対しても屈託がないように見える。
一つだけ違うのは、私たち夫婦も舞さんも、隣人としての距離を間違えないように、とても気を使っているところだ。
双子ちゃんたちはますます大きくなり、家政婦さんを兼ねたベビーシッターさんもいるので、舞さん一家は、少し前までのカオスではもうない。私と哲夫と舞さんと双子の五人で大きな家族のように過ごした時間は、すっかり過去のことになりつつある。
これがきっと正しいのだろう。でも、私たち大人の三人とも、知らないうちに趣味の悪いワルツでも躍らされているような、本当はそろってバカなんじゃないかという気もする。
*
暦の上では夏が終わり、双子が生後九ヶ月を迎えた土曜日、私と哲夫は、例によって舞さんの家で、午後をまったりと過ごしていた。
「きゃあ、鼓!」
舞さんが悲鳴を上げ、鼓ちゃんに目をやると、鼓ちゃんは顔と手をクリームでベタベタにしている。
哲夫が買ってきた離乳食用のおせんべいは、一瞬で鼓ちゃんのお腹におさめられ、舞さん用に買ってきたロールケーキをわしづかみにしていた。となりでは琴ちゃんが、まだほとんど減っていないおせんべいを、舐め回している。
哲夫が鼓ちゃんを拭くためのおしぼりをキッチンへ取りに行き、舞さんはクリームだらけの鼓ちゃんを見て爆笑しながら、スマホで写真を取る。
哲夫が鼓ちゃんの顔や手をおしぼりで拭いているうちに、今度は琴ちゃんが私のケーキに手を伸ばしてきて、すんでのところで私はケーキのお皿をずらした。お皿が琴ちゃんのプラスチックのコップにあたり、カランカランと派手な音を立ててコップがローテーブルの下に落ちる。
「空でよかった」とコップを広い、テーブルの下から顔を出そうとした拍子に頭を打った。
「いった!」
「大丈夫ですか?」
「何やってんだよ」
おままごとみたいに小さなリビングルームに、ぎゅうぎゅうに集まった大人三人が同時に吹き出す。
「人口密度が高いな、ここ」
「双子ちゃんたちが、日に日に増量してるしねぇ」
私と哲夫が笑いながら話していると、舞さんが
「そろそろ、引っ越さないとなぁ」と言った。
え! と驚いたのは私だけで、哲夫は平気な顔で
「やっぱり今の部屋は手狭?」と会話を続けている。
「寝室とは別に、子ども部屋が欲しいと思ってるんです。双子が1歳になったらって思ってましたけど、今から探さないと、あっという間に大きくなっちゃうし」
「焦らないでじっくり探した方がいいよ。保育園とか小学校のこともあるし」
「そうなんですよね。郊外のほうが広い部屋が借りやすいんですけど、都内のほうが意外と保育園に入りやすい地域もあって。今の場所が便利なので、せめて路線は一緒がいいなと思ったり。いろいろ考えてるとわけわかんなくなります」
「え? え? 待って。舞さん、引っ越すって、そんな。会えなくなっちゃうの?」
双子ちゃんたちがワーワーと暴れ始めたので、哲夫が鼓ちゃんを、舞さんが琴ちゃんをベビーチェアから解放させた。赤ちゃんの声と、哲夫と舞さんのクスクスと笑う声が混ざる。私だけが取り残されて、二人とは違う場所にいる。
「いえいえ。そんなに遠くへ行くわけじゃないですから。遠くても、せいぜい千葉県です。いつでも遊びに来てくださいね」
舞さんが、子どもをあやすような調子で、私に向かってニッコリした。
「そんな社交辞令、言わないで」
私の剣のある声が響いて、その場が一瞬静かになった。舞さんの顔が強ばり、哲夫が「美波」と私の名前を呼んだ。
「琴が、キッチンに行ってる」
高速ハイハイで移動している琴ちゃんを抱き上げ、琴ちゃんの好きなマラカスのおもちゃを探している間、私の心臓はバクバクと音を立てた。
「たまに双子のお守りをしに来てくださったら、助かるな〜なんて思ってるんですけど、図々しいですかね」
舞さんがコロコロと笑って、哲夫も「あんまり遠方に引っ越さないでね」とヘラヘラしている。
私だけが動転していて、二人のお芝居について行くことができない。親戚でもない、ただの隣人の私たちにとって、舞さん達が引っ越すということがどういうことなのか、二人にだってわかっているはずだ。
私たちの家族ごっこは、舞さんが引っ越してしまえばもう終わりだ。舞さん一家とはそのうち疎遠になって、双子ちゃんたちは哲夫のことなんて忘れてしまうのだ。
琴ちゃんが、ヨダレのついた小さな手で私の顔をペタペタと叩く。九月だというのに外はギラギラと暑く、エアコンの効いた部屋を、元気いっぱいの太陽光が照らしている。哲夫が鼓ちゃんを抱き上げ、舞さんが鼓ちゃんのぷよぷよの足を愛おしそうにつまむ。
眩しくて、見ているのが辛い。嫌だ、嫌だ。この光景を簡単に壊さないで。哲夫から双子を取り上げないで。
私が口出しできる問題じゃないのはわかっている。それでも、少しでも可能性があるのなら。
今度こそ、哲夫とちゃんと話してみよう。そう決心すると、胸の奥に火が灯り、ジリジリと焼けるような感覚を覚えた。
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