第30話 肉じゃが
舞さんに対して失礼な反応をしないように、表情をなるべく平静に保ちながら話を聞いた。
「妊娠がわかって、しかも双子だって知って、私は達也から逃げました。何も言わずにいきなりいなくなったから、達也はわけがわからなかったと思います。恨まれてもしょうがないって今でも思ってます。
怖かったんです。彼の口から『子どもを堕ろせ』って言われたくなかった。
達也には反対されるってわかってましたけど、どうしても産みたい、一人でも産みたいって、なぜか強く思ったんです。その時、逃げるしか道が思い浮かびませんでした」
舞さんはそこで、ふう、と息を吐いて、お味噌汁をゆっくりと飲んだ。私もつられてお味噌汁を飲む。
「おいしいね」
私が笑うと、舞さんも笑った。キリキリと張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
身重の身で旦那さんの元を去った舞さんが、どれだけ不安と孤独を抱えていたのか想像もつかない。実家に帰らなかったということは、おそらく帰れない事情があったのだろう。親にも夫にも助けてもらえずに、それでも双子を生んでこれまで育ててきたのはすごいことだ。だからなおさら、あの男が憎らしく思える。
私は子どもが欲しいとは思わない。でも、もし哲夫に子どもができたらきっと愛せたと思う。大切な人の子どもだからだ。その点では、達也さんと私は全然違う。
「美波さん、私のことがわからないって思ってるでしょう。なんで達也と離婚しないんだろうって」
あんな男とはさっさと離婚すればいいのにと、さっきと同じ思考にまた戻ってきた矢先、舞さんに図星を突かれたので、言葉に詰まった。
「いや、その。でも、十六歳の頃から付き合ってるんだったら……。っていうか、夫婦のことは、まわりにはわかんないよね」
マゴマゴと話す私に向かって、舞さんはふふ、と笑った。
「私には、美波さんがわかりません。哲夫さんとあんなに仲がいいのに、どうして離婚したいだなんて言うんですか」
急に話が私と哲夫のことになって、それと同時に舞さんの声色も変わった気がした。ほんわかと柔らかい雰囲気の舞さんの中には、とても硬くて尖ったものがあるのを、私は知っている。話の雲行きがにわかに怪しくなっていくのを感じた。
心を落ち着けて考えを整理するために、付け合わせのほうれん草のゴマ和えに箸をつけた。緊張して味がよくわからない。
この質問の回答次第では彼女を失望させる気がして、背筋がチリチリと落ち着かない。一番真実に近い言葉はなんだろうと一生懸命に頭をしぼった。
「鼓ちゃんと琴ちゃんはさ、これから大きくなって、いつか親元を巣立ったら、きっと別々の道を歩むでしょう?」
私が急に双子の話をしたので、舞さんが怪訝そうに眉根を寄せた。
「でもきっと、二人は一生、繋がってると思うんだ。
哲夫と私も、そんな感じなの。結婚しててもしてなくても、哲夫とはずっと一緒な気がするんだよ」
小さな頃から感じていたことだ。それは、金曜日の次は土曜日だとか、雨が続いた後は晴れるんだとか、そういうものと同じ類の揺るぎない確信だった。
その時、舞さんの目が鋭く尖った気がした。
それから舞さんは目を細めて薄く笑うと、少し間を置いて、何かを決心したみたいに口を開いた。
「美波さん、私が達也と離婚したくない理由はお金です」
「お金?」
今までがんばって平静を保っていたけど、意外な発言に目を丸くしてしまった。
「私が運営している不動産、今は私の名義なんです。でも、離婚したら半分、達也のものになります」
「ええ? そんなことってあるの? 舞さんには双子がいるのに?」
「達也には、養育費を払う義務があります。でも、義務があるからって払ってもらえるとは限りません。弁護士を立てて話し合えば、こちらに有利な条件で離婚できるかもしれないですけど、そういうことをする余裕がないんです。その……、お金だけじゃなくて、体力とか精神力のほうも」
ズーンと体が急に重くなった気がした。肉じゃがも、白いご飯も、まだ残っているお味噌汁も、さっきまでおいしく感じていたのに、もう食べる気がしない。
私は離婚というものを甘く見ていた。少なくとも、舞さんの前で軽々しくいう言葉ではなかったのに、何にもわかっちゃいなかったのだ。
私が箸を置いた後も、舞さんだけが、何かをやっつけるみたいにずっと箸を動かし続けた。
私が払うつもりだったけど、食事代は舞さんが払った。『まどか』から帰る途中、私と舞さんは黙って歩いた。私は申し訳ない気持ちでいっぱいで、取り返しのつかない間違いを犯してしまった後のような罪悪感でザラザラした。
私は、知らないうちに人を傷つけていることがある。お金持ちなわけではないけれど、愛されて育ち、平凡で幸せな人生を歩んできた。私はとても恵まれているのだろう。そのことに普段は無自覚で、時々ものすごく無神経なことを言ってしまう。
舞さんはきっと、今でも達也さんのことが好きなのだ。お金の問題が実際にあるとしても、達也さんが双子ちゃんを愛せなかったことに、一番傷ついている気がする。
そして彼女は、たぶん私のことを少し憎んでいる。
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