第26話 肉じゃが

「今のまま」がずっと続くなんて、思い込んでいた私は本当に浅はかだった。転機は突然、しかもあっという間に訪れた。


 哲夫が双子ちゃん通いを再開して一週間のことだ。自宅へ帰ったら哲夫がいて、暗いリビングのソファでぼんやり座っていた。


「電気付けないの?」

 話しかけると、哲夫はハッと私を見上げた。

「ああ、えっと。付けていいよ」


 電気を付けると、キッチンに切りかけのキャベツがあって、鍋にグラグラお湯が沸いている。


 平日は私のほうが帰りが遅いので、哲夫がご飯を作ってくれることが多い。哲夫がお隣のお手伝いに行っていない日は、「ただいま」とドアを開けると、大抵いい匂いがする。

 哲夫が料理の途中にぼんやり一休みすることなんてないので、何かがおかしい。


「今日、双子ちゃんの様子見てきた?」

「うん」

「元気だった?」

「……ああ、まあ」

「舞さんは?」

「いなかった」

「え!?」

「知らないおばさんがいた」

「へ?? 何それ」


 哲夫はボンヤリしていて、視界に何も入っていなさそうだ。

「とりあえずなんか食べる?」

 私のお腹はペコペコで、哲夫はボーッとしてるし、こういう時はまずご飯だ。


「キャベツとお湯って、何作ろうとしてたの?」

「……え? キャベツ……」

 いかん。心がどっかに飛んでしまっている。


 私は冷蔵庫の中とキッチンの戸棚を確認し、インスタントラーメンを作ることに決めた。トッピングは卵とキャベツとネギ。以上。自慢じゃないけど、料理は得意なほうではない。

 ラーメンを作ってダイニングテーブルへ並べ、まだ心ここにあらずの哲夫を座らせる。


「いただきます」

 まだボサッとしている哲夫をよそに、私は熱いうちに食べ始めた。食べると落ち着く。人間、空腹の間はロクなことを考えない。


 とりあえず食べ終わってから考えようと、夢中でラーメンを食べていると

「うまいな」

 と聞こえてきた。

 視線を上げると、哲夫は私が作ったラーメンを見入っている。


「久しぶりに食べると、おいしいね。インスタントも」

「ありがとう」

「なにが?」

「ラーメン……作ってくれて。あとさ、ごめん」

「えっと、だから、なにが?」

「こんなにショックを受けてることに、自分でも驚いてるんだ」

「なにがあったの?」


 そこで初めて、哲夫は私を真っ直ぐに見た。

「ベビーシッターさんに会った」

「へ?」

「舞さんとこ。ベビーシッターさんっていうか、家政婦さんなのかな。成人した双子の子どもがいるんだって」

「ゲホッ。ごほん!」

 びっくりして、ラーメンの汁が気管に入ってしまった。刻んだネギが鼻の奥に入った感覚がする。


「平日は昼過ぎから夜にかけて毎日来るってさ」

「……まあ、今まで雇ってなかったのが不思議っちゃ不思議だけど。舞さん、お金はそこそこありそうだし」


 舞さんは、東京周辺の空き家を改装し、外国人に貸すビジネスを営んでいる。民宿というよりは、家具付きのウィークリーマンションのようなもので、鍵の受け渡しや掃除は業者に任せているので、舞さん自身はあまり働かなくてもいい仕組みだ。とはいえ、住居に不具合があったり、なにかトラブルがあれば対処する必要があるので、そんな時に頼りにされてきたのが哲夫なのである。


 一軒目がうまく行ったので、今では五軒、東京近辺の郊外に物件を持っていて、その家賃収入で舞さんの生活は成り立っているらしい。


「その家政婦のおばさんに、『男の人が、あんまり深入りしないほうがいいんじゃないですか』って嫌味言われた」

 哲夫がそう言うので、カチンときた。

「なにそれ、ババア。化石か」


 哲夫が肩を落としてハァと大きなため息をつく。

「俺も最初はムッとしたけど、よく考えたらその通りだと思ってさ。他人の家庭に深入りして、調子に乗りすぎた」


「ちょっと、そんな寂しいこと言わないでよ! 舞さんも、鼓ちゃんと琴ちゃんも、もう他人じゃないでしょ? 舞さんも舞さんだよ。私たちに相談しないで、突然こんな……って、あ、あ、あ〜!」

 あることに思い当たって、私は大声を上げてしまい、その口を自分でふさいだ。


「なんだよいきなり」

「ごめん、哲夫。ほんとごめん。私のせいだ、私の……」

 両手で顔をおおってテーブルに突っ伏した。なんてバカな私。こうなるかもしれないって、どうして考えなかったんだろう。


「どうしたんだよ急に」

「……哲夫、怒んないで聞いてくれる?」

 哲夫の表情がにわかに険しくなる。


「この前、舞さんに、哲夫と結婚してくれないかって言っちゃったの」

 舞さんと同じく、哲夫もわけがわからないという顔になり、数秒してから

「はあ?!」

 とイスから腰を浮かせた。

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