第3話 煮込みうどん

「三十五歳……」

 リスさんが絶句した。なにもそこまで驚かなくても。


 リスさんは、たぶん二十三歳くらいだろう。十代でも通りそうだけど、私は人の実年齢を当てるのが得意である。どんなに大人ぶってる少女も、若作りしてる年増も、首や手や仕草なんかに実年齢がけっこう出る。


 食べ物、エクササイズ、化粧品……と、毎日美容に努力を惜しまない私は、十歳くらい若くみられる。でも、三十を過ぎたころからナンパされることがめっきり減った。ナンパしてくる男性の年齢も上がっている。やはり、確実に年を取っているし、まわりにだってわかるのだ。


 私がリスさんくらい若かった頃は、三十五歳なんて女性として完全にアウトだと思っていた。整形手術とかしている芸能人以外は、恋愛対象になどとてもなれないようなおばさんなんだと。自分がいざなってみると、まだ全然若い……というか、幼いとすら思うのに。


「三十五歳って、妖怪みたいな年でもないよ」

 ちょっと言い方がキツくなってしまった。

「え?!」

 リスさんがあわあわしている。かわいいな。もっといじりたくなるな。


「まあでも、若い人たちからすると、もうお婆さんだと思うよね」

「え? え? そんなことは。えっと、そうじゃなくて」

「いいよ、別に。本当のことだし」

「違うんです……。えっと。私より、一こか二こ上かなって思ってたんですけど……」

 ふーん。


「三十五歳って、こんなに若いんですねぇ……」

 リスさんがほんの少し悲しそうな顔になった気がして、ん? とひっかかったけど、それは本当に一瞬のことで、すぐに礼儀正しい顔に戻った。控えめに口角を上げた接客用の真顔に。


 三十五歳は若いんだろうか。明日会う予定の美由紀は、三十五歳で初めて子どもを生んだけど、高齢出産なのだと言っていた。「人生五十年」と言われていた時代では、十代で子をもうけ、三十代で孫ができるのが普通だったのだ。


 私も昔は、二十代で結婚して三十手前でママになるのだと思っていた。まさか、この年になって独身で、猫の額ほど狭いマンションで一人暮らしをしているとは想像したこともなかった。


 仕事も、オーナーが趣味で始めたような雑貨屋の雇われ店長をやっていて、経営はいつもカツカツだから、いつどうなるかわからない。



 線路下に隠れるように佇むその雑貨屋を発見したのは大学生のときだ。グアテマラ産のバスケットだとか、ネパール産のブランケットだとか、世界中の手工芸品を売る店で、店にあるもの全てが好みだった。


 通っているうちにアルバイトをするようになり、大学を卒業するタイミングで正社員にしてもらった。なりたい職業も特になく、就職活動が嫌で仕方のなかった私には渡りに船だった。


 あのとき、就職活動から逃げてなかったら、どうなってたんだろうと今でも思うことがある。オーナーは、買い付けから店の飾り付けから、アルバイト店員の採用まで、まだ子どもみたいだった私になんでもさせてくれた。


 仕入れ先とのやり取りは英語が多かったから、英文科を出たことが活かせるという言い訳もできた。

 がむしゃらに働いて、疲れた体でビールを飲みながら、ちゃんとしたところに就職しなくて良かった。毎日が充実してる。と自分に言い聞かせるように思っていた。


 つまり、自分の仕事を『ちゃんとした仕事』とも思ってなかったのだ。

 あの頃はそれで問題なかった。自分が『ちゃんとした大人』になるのはずっとあとのことで、選択肢は無数にあった。空の虹を遠くから眺めるような気持ちで自分の将来のことをぼんやりと考えていて(というか、ほとんど考えていなくて)、いつか遠い未来に虹の向こうに行けるのだと思っていた。


 年齢だけは『ちゃんとした大人』の域に達してしまった今、『ここ』が虹の向こう側なんだと気づく。無数の選択肢なんかない。貯金もほとんどなく、仕事も幸先不透明で、子どもを作るのも身体的に難しくなってきている歳だ。その前に、結婚して子どもを作る相手がそもそもいない。


 大手のメーカーに就職し、私の二倍も三倍もお給料を稼ぐようになった大学時代の友達や、早くに結婚して子どもが三人もいる高校の同級生の話を聞いた時など、私は決定的に人生を間違えて、もう取り返しがつかないんじゃないかとゾッとすることがある。


 買い付けの仕事は二十代でさんざんやって、体がキツくなってきたから、今は若い従業員さんに任せている。退職を期に雑貨屋を始めたオーナーは今でも元気だけど、七十を過ぎてからはほとんどお店には出てこない。


 ウチの店はフェアトレードの商品しか置かない。つまり、職人さんたちが正当なお給料がもらえるような仕入れ先としか取り引きがない。そのぶん、商品の値段がどうしても割高になる。同じようなものが、量販店で半額以下の値段で買えたりする。


 雑貨屋なんてもともと儲かる商売でもないのに、量販店にお客を取られ、仕入れのコストが高いものだから、利益はほとんどでない。従業員のお給料を払うので精一杯だ。私のお給料は何年も上がっていない。


 年中むくみっぱなしの脚と腰痛に悩まされながら、あと何年こんな生活が続くんだろうって思う。確固たるものを何も持たないまま、いつまで一人で頼りなく生きていくんだろう。


「あの……」

 リスさんの声がして、ハッと我に返った。


「あ、ごめんなさい。長居しちゃって。もう帰るんで」

「え? あ、あの、違うんです。今日は閉めるのが早かったんです。いつもはもうちょっと遅くまでやってて。今日は、ナベさんの具合が悪くなってしまって」

「え? そうなの? ナベさん大丈夫?」


「ふふ。はい、大丈夫です。ただの風邪です。咳が出てお客さんの迷惑になりそうだったから帰ってもらったんです。どうせ暇だったので早めに閉めただけで。それで……みたらし団子、食べます?」

「へ?」

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